第37話 山嵐の難解な人生
先月2月12日は筆者が敬愛していた司馬遼太郎さんの命日でした。没後10年(2006年当時)になります。司馬さんは、読書などとんと縁の無かった少年(筆者のことですよ)に人生の楽しみを教えてくれた大の恩人でした。
その司馬さんの大作“坂の上の雲”は戦後の国民愛読書№1にあげられ、たしか、21世紀に残したい本というアンケートでもトップの位置を占めていたと思います。NHKが映像権を取得して来年あたりから放送するらしいですが、司馬さんは生前、戦争賛歌と誤解される恐れを心配して頑として映像化への許諾を出さなかった作品でもあります。
筆者はこの作品を学生時代の下宿先で読みました。冬の寒い日、風呂上りにやぐら炬燵に入って、みかんをほおばりながらこの本を読んでいたときはほんとうに至福の時でした。懐かしい思い出です。
この壮大な叙事詩の中で筆者が一番好きだったところは、実は圧巻部である日露戦争の場面ではなく、ゆっくりと始まる序幕部分でした。正岡昇(後の子規)や彼に“剛友”と呼ばれた主人公の一人、秋山真之たちとの交流、いわば明治の青春像の描写場面がなんとも心地よかったと記憶しています。
二人はともに上京して、大学予備門(旧制第一高等学校の前身)に入学しますが、このときの同期生にやはり子規に“畏友”と呼ばれ終生の親友となる夏目金之助(後の漱石)がいました。
ところで、大学予備門でこの若者たちに数学を教えていたのは、隈本有尚(ありたかと読む)という人であることを後に知りました。東京大学理学部に籍を置き、日本で初めてマトリックス代数を紹介した数学者でもありました。なんと、漱石の“坊ちゃん”に出てくる“山嵐”のモデルはこの人であるといわれています。
隈本有尚(1860-1943)と言っても、読者のほとんどは初めて聞く名ではないでしょうか。人名辞典にも出ていないし、一般の文芸書にも出てこないですが、1つだけあります。松本清張の小説“小説東京帝国大学”の前半部の主要人物として登場しています。これは、明治時代後半のある事件に絡んでのことですが、このことは後で紹介します。ただ、この中では、隈本有尚はどうも清張さんに曲解されているようですが。
筆者はこの本も学生時代に読んだのですが、隈本有尚の名はすっかり忘れていました。それが、最近読んだある数学史の本の中で隈本有尚の名を見つけ、再発見した次第であります。
隈本有尚は現在の福岡県久留米市に生まれています。上京して、東京大学理学部の第1期生として入学したのが明治11年のことでした。同期生はたったの4人で、田中館愛橘、田中正平、藤沢力喜太郎、そして、隈本有尚です。後に、専攻が数学、物理、星学(天文学)の3つに分かれた際、隈本は星学専攻となります。
だが、田中館は地球物理学で、田中は音響学で、藤沢は数学の各分野で近代日本における指導的役割を演じ、それぞれ名を成しているのに対して、隈本一人、取り残されています。それは、彼の能力に問題があったわけではありません。むしろ、数学者としては才能ある人のようでした。
明治も後期に入ると、高木貞治のような世界的数学者も出てきて、日本の数学レベルも相当なものになるのですが、隈本が若かった明治前期では、藤沢同様、隈本も日本数学の第一人者になれていたはずです。それが、そうはならなかったのは、彼の性格、あまりの硬骨漢ぶりが災いしたのです。数学の影響でもないでしょうが、周りに厳格性をもとめる性格が彼の後々の人生で事件を起こしてしまいます。自転車で街角を曲がるときも直角に曲がっていたといわれた人であります。
まず、隈本のその後の人生に大きく影響してしまう事件が東大の卒業時に起こります。彼は東大を卒業はしましたが、学士の称号はもらえなかったといいます。それは、卒業式で、「人物の真価は紙一枚を以って定めるべきでない」と言って卒業証書を時の理学部長、菊池大麓の面前で破り捨てるという破天荒な事件を起こしてしまったからです。この事件の背景には、菊池大麓の数学者としての才能に疑問を持っていたことからくる菊池への日頃からの反目があったようです。
読者の中には学生時代を思い出して、学者としては何ほどの実績もないが、教育者、教育管理者としては手腕を発揮する人がいたということはないでしょうか。菊池大麓は日本でこのタイプの第一号の理学博士でした。
菊池大麓は幕末から明治にかけての混乱期に二度も英国に留学し、ケンブリッジでは何度もその優秀さで表彰されています。それにもかかわらず、菊池は英国で数学は学んできたが、研究は学んでこなかったといわれたぐらいに数学者としては何ほどの学問的実績も残していません。
こういう菊池の数学者ぶりに反感を持った隈本ですが、相手が悪かった。研究者としては無能だったかもしれませんが、東大総長、文部大臣へと出世街道を歩むような教育行政者としては大物の菊池でした。
この事件で、隈本の学者としての数学人生は断たれてしまいます。同期の3人が西欧へ早々と留学させてもらい、帰朝後の学術分野で活躍の場を約束されたのに対して、隈本一人がかやの外でした。後年、西欧視察という機会を与えられますが、全く別の目的でした。
隈本有尚の人生には大きく分けて三幕ありました。東大を去るまでの血気盛んな時代が第一幕で、明治37年ごろ、40歳を過ぎて外遊するまでが第二幕であります。そして、この時期の最後こそ、彼の名を最も有名にしてしまった事件が起きてしまうのです。明治18年、学者としての道を断たれた隈本有尚は25歳のとき、今も続く福岡の名門、修猶館の初代館長として迎えられ東京を離れることになります。これからしばらく続く教育者、教育監督者としての彼の人生が始まります。後年の彼の人生のキーワードともなる数学とは関係ない倫理学に興味を持つのもこの時代からでした。
地方の学校の教育者として平穏に過ごせたかといえば、これが全く違いました。福岡からの転任先、山口では彼の厳格すぎる性格が一因で生徒たちとのトラブルが起こり、地元周辺が騒然となる事件もありました。その後、文部省に入省して東京に戻りますが、ここで、日本の教育史では有名となる“哲学館事件”が起きてしまいます。
哲学館というのは今の東洋大学のことで、当時、私学では慶応、早稲田とともに哲学館の3校だけは、卒業生には中学教員無試験検定という特権が与えられていたらしいです。そのため、3校の卒業試験時には文部省より視学官が派遣されていました。明治35年の時は哲学館では隈本有尚が担当でした。
この時の事件を紹介していると話が長くなるので、詳細は先の“小説東京帝国大学”等をご覧いただくとして、ここではかいつまんで話します。
学生の一人の答案に目を通した隈本がその内容に懸念する所があり、倫理学の教官との問答となります。その結果を文部省に報告したことが哲学館への特権廃止という事態に至ります。さあ、これが、「学問の自由を封じるもの」、「私学を軽んじる」といった各方面からの非難が飛び交い、言論界はむろん、政界まで巻き込んだ大事件に発展するのです。隈本は別に特権廃止まで進言したつもりはなく、ただ、事実を報告しただけと言っていますが、事件の引き金を引いた張本人になってしまいました。
44歳のとき外遊してから、84歳で亡くなるまでの40年間が第三幕です。しかし、この時期のことは内容が内容だけに筆者にはよく分かりません。ドイツではシュタイナーという哲学者の影響を受け、日本に“人智学”というものを初めて紹介したといいます。一方、元々の出身分野の天文学の知識を生かしたのかどうか、占星術にも深く入り込むことになったらしいです。大正、昭和の安倍晴明と言ったところでしょうか。
真面目すぎた性格ゆえ、数学の道を歩めなかったと言えばいいのか、また、彼の厳格性からは実際に彼が歩んだ道が良かったと言えばいいのか、よく分かりませんが、ともかく、難解な人生の隈本有尚でした。
2006年3月記
読者からの寄せられたコメント
隈本有尚は、私の曾祖父にあたります。確か、山嵐のモデル?だったとの話を思い出したまたまこちらのページを発見しました。
私の父も帝大法学部出身で優秀ではありましたが、性格的には祖父の有尚似で、気難し人でした!
そうですか!そんな血筋の人からコメントいただいて感激しております。連載を終了してから長らく本サイトを覗いていなかったもので、今回久しぶりに覗いてみて初めていただいたコメントに気づきました。返信遅れて申し訳ありませんでした。
歴史上の1人の人物としての観点から見た場合、隈本有尚も面白い人物に間違いありませんね。
性格面はともかく、才能面では豊かな資質を持った家系なんですね。津坂さんも何かの分野の学者ですか(でしたか)?
「ちえこ」という名も、私の妻は「千栄子」ですが、「知英子」とは、なんと知性をイメージさせる名前ではないですか!