第29話 数奇な一生
工学部の学生時代、ドイツ語の文献を読まされたのは、大正生まれの教授を師と仰いだ筆者らの世代が最後ではなかったではないでしょうか。われわれの世代でも随分あやしかったですが。
何でもコンピュータで力任せに解析する戦後のアメリカ方式に比べると、数学的に展開するドイツ理論は格調高く、そのハードカバーの書籍は風格さえありました。
明治の初め、各分野の近代化を図るにあたって、学問、技術、組織などをどこの国から輸入するかは大きな問題でした。そして、それぞれに興味深い歴史を残しています。
工学分野は数学、物理の影響もあってか明治時代の近代化にあってはイギリス、ドイツに範をとっています。
軍の方では、海軍が7つの海を支配したという英国海軍に簡単に傾倒したのに比べると陸軍は変節しました。当初、徳川幕府時代からの因縁でフランス陸軍を輸入しようとして政府調査団を欧州に派遣しましたところ、普仏戦争が勃発しフランスがドイツに負けたため、急きょドイツ陸軍に乗り換えた経緯があります。
大どんでん返しがあったのは医学の分野です。戊辰の役に活躍した英国医師、ウィリアム・ウィリスの影響もあって、明治政府はほとんど日本の医学を英国から輸入することに決定していました。ところが、ここに数奇な人生を送ることになる一人の人物が登場してから話が急転回することになります。
相良知安(1836-1906)は佐賀藩出身の蘭方医でした。オランダの医学書がほとんどドイツ医学書からの翻訳であることを看破した彼は、持ち前の激情的な性格から強行的ともいえるほどに政府内関係者にドイツ医学を説いて回り、ついに変更することに成功したのです。これが、今にいたる医者がドイツ語でカルテを書く原点であります。
ところで、ほとんど無名の相良がどうして歴史の表舞台に登場してきたかといえば、長崎で教えを受けていたオランダ人医師ボードインとの絡みがあります。幕末から明治への混乱期のことです。徳川幕府とボードインとの間で交わされていた約束が幕府崩壊のため反故になり、ボードインの地位も不安定になりました。明治新政府は彼への配慮から、調整役としてかっての教え子で親交もあった相良知安を抜擢したのです。これがきっかけで相良は日本の近代医学揺籃期に医療行政の面で活躍することになるわけです。
新政府に自説を展開していた得意の絶頂期に、実は後年の悲惨な人生の布石があったことは当の本人も分からなかったでしょう。妥協を許さない頑な性格は次第に人を遠ざけることになり敵も多く作ってしまったようです。不幸な冤罪で、しばらく牢獄につながれたこともあり、これ以後、彼の精神に何らかの変化がきたすことになります。出獄後、いくつかの医療関係の要職を歴任するも、やがて全ての官職から退いてしまいます。
それからというものは、日本医学界の黎明期に中枢にいた人物が、その地位を捨て家庭も放棄してしまい、拗ねたような人生を東京の下町の片隅で最期まで過ごすこととなります。晩年は生活に困窮し、筮竹を片手に持つ街の占い師に身をやつすという変わりようでありました。
明治39年、相良知安、71の年に人知れずインフルエンザのため死去しました。その時、天皇家から祭祀料がその廃屋に届きました。近所の人たちは、この住人がそんなに偉い人だったことをその時初めて知り、非常に驚いたといいます。
2005年1月記