FEMINGWAY 〜有限要素法解析など構造設計にまつわる数理エッセイ〜

第30話 二人目の数学教授

この正月三が日、筆者は「高木貞治とその時代」という本1 を読んで過ごしました。本邦第1号の世界的数学者である高木貞治を軸にして黎明期の日本数学界を描いた好著でした。数学史に興味を持つ筆者にとって非常に面白く読ませていただきました。以下は、この本で得た話題を下敷きに雑談をしてみたいと思います。時間の許す方は、とくとお付き合いください。

 

明治8年(1875)、現岐阜県本巣市に生まれた高木貞治(1875-1960)が、京都の第三高等中学校(後の第三高前身)を経て、明治27年(1984)、帝国大学(後の東京帝国大学前身)理科大学数学科に入学したとき、数学の先生はたった二人しかいませんでした。一人は菊池大麓(1855-1917)で、もう一人は、明治20年(1887)にドイツ留学から帰朝していた藤沢利喜太郎(1861-1933)であります。後に高木もドイツへ留学して、帰朝後母校に籍を置くことになりますので、高木は日本で三人目の数学教授というわけです。ここでは、二人目の数学教授であった藤沢利喜太郎に焦点を絞って雑談をしてみたいと思います。

藤沢利喜太郎と言っても、特に日本の数学史に興味を持つ人間以外には、ほとんど知られていない数学者だと想像します。彼のプロフィールを紹介しようとしても、後輩の高木がエッセイ風の書き物を多く残してくれたのに対して、藤沢にはそれがありません。藤沢は、自分史を語ることをあまり好まなかった人のようで、自分周辺の話題を材料にした書き物はほとんどないようです。そんなことで、藤沢には、数学界への貢献話以外は、あまり耳にする話題はなく、人間藤沢利喜太郎を知ることはほとんど期待できないのですが、冒頭の本では、他書には見れない藤沢の記述が散見されます。そこで、それらを参考に藤沢の経年順序に沿って、彼の周辺の人たちを巻き込んだ話をしてみます。

 

まず、藤沢が佐渡ヶ島の相川(現新潟県佐渡市相川町)の生まれ2 ということに、歴史好きの筆者には興味を惹かれました。よく知られていますように、かつての佐渡の相川には戦国時代から発掘された金山があり、江戸幕府の重要な財源となっており、佐渡奉行所も置かれていた所です。筆者も学生時代に一度訪れたことがありますが、滝廉太郎作「荒城の月」にある詩の一節「昔のひかり、今いずこ」を思わせる街並みだったと記憶しています。

筆者の知る限りでも、この孤島の田舎町で幕末三人の、紳士録に載るほどの著名人が生まれているのです3 。もちろん、一人は藤沢利喜太郎のことですが、三人とも父親が佐渡奉行支配下の役人であったことが興味深さを増します。

益田孝(1848-1938)
嘉永元年生まれ。父親が金山地役人。実業家。三井物産社長。三井財閥内での最中心人物。
高田慎蔵(1852-1921)
嘉永5年生まれ。父親が地役人組頭。三井物産、大倉組と並ぶ、明治期の三大商社の一つ高田商会の創業者。
藤沢利喜太郎(1861-1933)
文久元年生まれ。父親はオランダ語通詞の幕臣。

明治新政府が誕生した1868年には、増田が20歳、高田が16歳であったのに対して藤沢が7歳であり、青年と少年の年の開きがあるので、相川時代の彼らの交流は考えにくいでしょうが、父親同士の交流はあったのかどうか、興味津々のところではないでしょうか。

ここでちょっと脱線して上記の高田慎蔵に目を向けてみます。NHKの放送番組に「ファミリーヒストリー」というのがありますね。ゲスト出演者のルーツを探索して紹介する番組です。過日、あの番組を見ていたら、その日のゲストは高田万由子さんでした。彼女は、東大卒の女性タレントのはしりと言えるかもしれませんが、富豪家の生まれということでもちょっと有名でしたね。なんと彼女の実家が、高田慎蔵の流れをくむ家だということをテレビで紹介していました。これには、筆者も驚きでした。高田慎蔵は万由子さんの高祖父だとのことです。もっとも、高田慎蔵が創業した高田商会は、彼の死後、関東大震災を契機に経営破綻したとのことです4 。まるで、後年、昭和の金融恐慌で突如として破綻した神戸の大商社鈴木商店の姿をダブらせますね。

 

閑話休題。藤沢利喜太郎の話しに戻ります。藤沢は、新生日本が西欧文明を輸入する黎明期に生きた人物ですから、本人自身が地味な人物でエピソードを残さなくても、彼の周りにはおのずと小さなエピソードで歴史を賑わす人たちがいました。

明治11年(1878)、藤沢は、東京大学理学部に入学しますが、その時の所属先である数学物理学及星学科の同期生は三人で、そのうちの二人、田中舘愛橘と隈本有尚については、拙著“理系夜話”のあちこちで紹介済みです。特に、後者の隈本有尚は極めて異例な個性の持ち主であったことは、同第37話で紹介しております。

明治16年(1883)には、藤沢は留学のためドイツに旅立ちましたが、その時の同行者もエピソード提供者でした。その同行者とは、後の東大医学部内科教授・青山胤通でした(1859-1917)。当時の内科分野では相当有名人だったようで、軍医であった森林太郎(鴎外)とも親密な間柄でした。鴎外同様、権威主義の人物だったようで、有名な脚気論争時期、これも鴎外同様、原因を感染症とみなす自説を頑なに固守したり、伝染病研究所の東大への移管騒動時には、北里柴三郎とやりあった人物でした。癌研究所を創設した人でもありますが、自分自身59歳の時、癌で亡くなったようです。

 

さて、数学者としての藤沢利喜太郎のことですが、面白いことに、藤沢は、最初から数学を目指していたわけではなかったようです。それどころか同期生四人の中には、数学方面を希望している人間がいなかったようです。数学へ藤沢を誘ったのは、菊池大麓だとのことです。どうも海外留学を餌に誘ったみたいです。

その留学先選定に菊池は、自分自身の二度の英国留学経験からか、当初英国に渡るにしても、そこからドイツへ行けとアドバイスしたようです。英国数学の洗礼を受けていた菊池の目にもドイツ数学の高邁さが眩しく、今後の数学輸入には、トドハンター流(理系夜話第46話参照)の数学ではもはや物足りなく感じていたのでしょう。やはり、英国流医学からドイツ医学へと舵取りを変えた医学界と同じ情況があったわけです。

ドイツでの藤沢といえば、ベルリン大学のクロネッカーに師事したので、彼の帰朝後の日本の数学界は、クロネッカー流のドイツ数学が敷衍したと言われていますが、藤沢が影響を受けたのは、何もクロネッカーだけではありませんでした。ベルリンにいては、日本人が多くいるので語学習得に悪いという理由で、どこか他の大学に行きたいとクロネッカーに相談すると、ストラスブルク大学にいるクリストフェルの所を勧められたといいます。

クリストフェル(1829-1900)は、ディリクレ、リーマンの系譜に連なる数学者のようですが、数学の専門家でない人間にとってはあまり馴染みのない数学者かもしれませんね。工学系の人間にとっては一つだけ顔を覗かせてくれる場面があります。テンソル学の教科書を開くと、曲線座標系でのテンソルを記述する章で「クリストフェルの記号」というのが必ず登場しています。3添字で表現される記号です。クリストフェルというのは、このクリストフェルです。藤沢は、クリストフェルの下で、複素関数論を学習して、日本に持ち帰ったとのことです。学位論文もクリストフェルの指導を受けて書いたようです。

帰朝後の藤沢と言えば、彼の後輩、高木貞治が当時の数学の難題を解決したりして世界的数学研究者となったような数学者ではなく、日本の数学の方向を指導するような数学教育者であったように思います。藤沢以前の日本の数学と言えば、幕末からの英国との交流が大きく影響して、数学書も英国の数学書が多く輸入されていました。さらに加えて、英国に留学した菊池大麓が、自身も習った体験のあるトドハンター著の数学教科書を多く持ち帰ったことにも由来して、明治初年の日本の数学といえば、先にも言ったようにトドハンター流の数学が席捲していた状態でした。

もし、日本がそのままトドハンター流の数学で満足していたら、日本での数学は停滞したままの状態が続いたことでしょうから、藤沢の留学と帰朝後の彼による数学伝授は日本にとって大きな意味があったわけです。

藤沢による大学での講義風景について受講生の一人が、面白い話を紹介しています。大学黎明期の科学関係の講義は、通常、英語でなされていたことはよく知られていますが、藤沢も例外ではなかったようです。クリストフェル伝授の複素関数論の講義の際、まず概要を英語で話したことを学生に書き取らせ、その後、肝要なことを日本語で念を押していたようです。ところで、藤沢は、英語で話す際には、自分は手元にあるドイツ語の文書を見ていたというのです。つまり、日本人の藤沢が、ドイツ語の文書を英語に翻訳して話していたというのです。ため息が出そうな話ですね。

最後に、意外な藤沢の姿を紹介して終わりとします。格調高いドイツ数学の導入から後継者の育成と、随分その後の日本の純粋数学の面で貢献してきた藤沢ですが、若い頃から、確立・統計といった応用数学面にも関心を寄せていたのです。特に生命保険には強い関心があり、その数理的理論を内容とした書籍も刊行しているほどなのです。

面白いエピソードを一つ。英語の“probability(プロバビリティー)”といえば、日本語では“確立”を意味しますが、この訳語は、なんと藤沢利喜太郎によるとのことです。

2017年1月記

  1. 高瀬正仁著、東京大学出版会、2014年。 []
  2. 生まれは江戸の地だったという説もあるようです。 []
  3. 近くにあった新町(現真野町)では、司馬遼太郎描くところの「胡蝶の夢」での主人公の一人、奇才司馬凌海(1839-1879)が出ています。 []
  4. 現在も、初代の流れをくむ高田商会という会社は存在しているとのことです。 []

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