FEMINGWAY 〜有限要素法解析など構造設計にまつわる数理エッセイ〜

第22話 専門を持たなかった貴族物理学者

19世紀英国の物理界で、われわれがよく知る物理学者の中に、何々卿と呼ばれる人は少なくとも二人いますね。一人は、絶対温度にその名を残す大物物理学者のケルヴィン卿であり、もう一人は、やはり同国の生まれながらにして貴族だったレーリー卿です。レーリー卿は元の名をジョン・ウィリアム・ストラット(J.W.Strutt:1842-1919)といったそうです。

レーリーは理系分野の人間にはよく知られた名前だと思いますが、理系以外の人にはほとんど無名の人だと推測します。彼の経歴と人となりは、昭和5年に寺田寅彦が書いた“レーリー卿”という小伝の中で語られています。この小伝は、子息の方のレーリー卿が書いた著書から抄録されたものです。レーリーの人物像を知りたければ、今でも一番詳細が分かる邦文の伝記ではないでしょか。寺田寅彦全集の第6巻に掲載されています。

しかし、欧米の数いる著名物理学者の中で、寅彦がレーリー卿を採り上げたのには、どういう背景があったのかちょっと不思議な感じがします。寅彦は、2年間の欧州留学を経験していますが、大半の滞在がドイツの大学であり、英国へは帰国途中に立ち寄ったという旅程だったので、レーリーと親交を結んだ様子もありません。しかも、英国に立ち寄った時期が明治44年(1911)といいますから、レーリーはすでに69歳という高齢で、時代は息子の方のレーリー卿の時代でした。やはり、特に専門分野を持たず幅広く物理に接触したレーリーの姿に自分と同じ物理スタイルを感じて親近感を持ったゆえかも知れませんね。もちろん、これは筆者の想像の域を出ませんが。

レーリーは、英国物理学史の中で古典物理学の最後を飾る大物物理学者であるケルヴィン、マクスウェルの世代と現代物理学へとつながる原子物理学のJ.J.トムソンやラザフォードの世代に挟まれた物理学者でした。19世紀中頃から後期へかけての英国科学界のバトンリレーは目を見張るものがあります。レーリーが入学したケンブリッジ大学では、数学の名チューターで名を残したラウス(“理系夜話”第46話参照)の指導を受け、物理面はストークス(同第33話参照)に学んでいます。後に、彼自身が指導側に回った際は、電子の発見者で有名なJ.J.トムソンの指導をしています。

1904年、レーリーは第4回目のノーベル物理学賞を受賞しています。受賞理由が希少ガス、アルゴンの発見でした。面白いことに、同年のノーベル化学賞を同じ英国のラムゼーが同じ理由で受賞しています。初期の頃のノーベル賞にはこんな事もあったのですね。しかし、レーリーは特段この方面の専門家ではありませんでした。

一方、一般の人たちの間でレーリーの名を知る人がいるとすれば、ひょっとしたら“空の青色”を解明した人として知られているかもしれませんね。後に “レーリー散乱”という専門用語ができたように、レーリーは、有史以来、ずっと問われてきた「どうして空は青いのか」という疑問に、古典物理の範囲で一応の数理的解釈を果たした物理学者なのでした。彼の大先輩物理学者チンダルが机の上の瓶の中で“空の青さ”のシミレーションに成功したのに刺激を受けて、レーリーは理論的探求にチャレンジしたのです。実験が得意なチンダルは、彼が敬愛する師ファラデー同様、数学面は全く駄目だったのです。実験物理学者と理論物理学者の連携プレーの成功物語の一つがここにもあったわけです。

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ところで、3年ほど前、岩波書店から“青の物理学(ピーター・ペジック著)”という興味深い翻訳本が出版されています。空の青さの理由をめぐって、古代より現代まで追究されてきた物理のみならず文化史も含んだ科学史の本です。もちろん、チンダルとレーリーの貢献(レーリーの散乱式は、ある条件下で有効だという解説も含めて)も紹介されています。科学史と言っても、大部の本ではなく手軽なサイズですので、関心ある読者はご一読下さい。

閑話休題。レーリーは77歳の人生だったのですが、生涯、何度も重病を患っており、生命の危機もあったのですが、その都度切り抜けています。1872年、30歳の時、やはり熱病に罹り、病後の休養で夫人とその姉と3人でエジプト旅行に出かけています。この時、ナイル川に長期間、船を浮かべていたのですが、退屈しのぎに草稿を始めたのが、後に振動学方面での名著とされている“The Theory of Sound(音響学)”でした。この本は、今でもこの部門でのバイブル的存在で、振動学を勉強しようとする人は必ずどこかで目にする文献名のはずです。

この書に関しては、先の寺田寅彦のレーリー伝で面白い話が紹介されています。“音響学”が有名になったのは、ドイツのヘルムホルツが“ネイチャー”紙上で、トムソン-テートの書(“理系夜話”50話参照)に比肩する名著だと紹介したのが始まりだと言っています。そしてトムソン(ケルヴィン卿のこと)らの本は、続巻が待望されていたのにもかかわらず、未刊に終ったのは、自分たちの本とマクスウェルの“電磁気学”それにレーリーの“音響学”で、当時の物理の大体は言い尽くされた、とトムソンは言ったというのです。

事程左様に、レーリーはあちらこちらの物理をやっており、専門性のない物理学者とも言われていたようです。自宅に実験室を作り、人生の相当期間そこでの実験活動をやっています。実験物理学者でもあり理論物理学でもあったのです。また、貴族のディレッタント科学者であった側面も免れません。そんなことから、革新的な物理学の功績はなかったとも評価されることもあるようです。

しかし、工学部門の人間にとっては、彼の名は鮮明に焼き付いているはずです。特に、振動・波動学の物理に少しでも携わる人には、先に出た“レーリー散乱”の他、彼の名を冠する用語がいくつか直ちに出てくることでしょう。筆者の知る狭い範囲でも、レーリーと言えば、たちまち次の用語が浮かんできます。

  • レーリー減衰 : 剛性項と質量項の簡単な線形関係で考える減衰項
  • レーリー商 : 固有モードから固有値を求める式
  • レーリー波 : 弾性体表面で生じる表面波の一つ

そして、工学の数値解析者にとって極め付きの用語が、境界値問題の近似解法“レーリー・リッツ法”ではないでしょうか。未知物理量を多項式仮定して解いていくレーリー・リッツ法は、現在の数値解析法の主流である有限要素法の源流の一つでもあります。レーリー・リッツ法は、1870年、振動問題の研究でレーリーが採用したのを嚆矢とし、ずっと後の1909年、スイス出身の物理学者リッツがさらに一般化して、現在の形にしたそうです。それで、レーリー・リッツ法と呼ばれています。

 

最後に、余談を一つ話して終りとします。

唐突な話題ながら、年輩の人たちに、マンチェスターと呼びかけると、たちまちリバプールとかえってくる、という話題が以前のテレビ番組で放映されていたことがありました。昔、流行った歌の決まり文句です。トム&ジェリーと同じようなものです。それで、筆者などは、レーリーと言われると、ついリッツと口から出てきそうになります。昔、レーリー・リッツ法にお世話になった身なものですから(笑)。

そんなことで、ほんの少しですけれど、リッツ(1878-1909)のことも紹介しておきます。実は、リッツはスイスのチューリヒ工科大学(ETH)の学生時代、あのアインシュタインと同期生だったのですよ。

アインシュタインが特殊相対性理論を発表したのを受けて、4次元時空間の数学を打ち立てたことで有名なミンコフスキー(“有限要素法よもやま話”第28話参照)が、-その当時、ゲッチンゲン大学の先生でした-ある時スイスの文部大臣に手紙を出したことがあったそうです。その中で、自分が昔いたETHの出身者の数学的才能について賞賛する際、その人の同期生には、他に3人の優秀な数学者がいたことに言及しています。と言いますのも、当時、ETHで彼らの数学の先生をしていたのがミンコフスキーだったのです。

その一人がアインシュタインであり(もっとも、普通の意味ではアインシュタインはまじめな学生ではなかったですが)、もう一人は彼が一般相対性理論を創始する際、数学面でアインシュタインを助けたグロスマン、そして残り一人がミンコフスキーのお膝元であるゲッチンゲンにいるリッツだと言っているのです。ちなみに、この手紙を出した3ヶ月後、ミンコフスキーは命を終えています。

その当時、リッツはゲッチンゲン大学で教職をしていたのですが、彼の人生も、師のミンコフスキー(45歳)以上に、あまりにも短いものでした。なんと31歳という短命でした。しかも、奇しくも二人は同じ年(1909)に亡くなっています。レーリー・リッツ法は彼の最期の年の作品でした。

2014年3月記

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