FEMINGWAY 〜有限要素法解析など構造設計にまつわる数理エッセイ〜

第20話 明治9年組留学生の2人・前編

滋賀県の大津市は全国の県庁所在都市のなかでも存在感の薄いところではないでしょうか。新幹線が通るのに駅もありません。“のぞみ”に乗って京都観光に来られる東日本の方々には、名古屋駅を出ると京都駅までノンストップなので、そもそも滋賀県内を走っていることすら印象に残っていないのでは、と想像します。

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地図を見ていただければ理解していただけるかと思いますが、左手の親指と人差し指の間を少し広げたような形をして琵琶湖南岸に位置しているのが大津市です。その両指の谷間に、膳所と呼ばれる処があります。この地名を初めて見る方は、読み方に苦しまれると思いますが、“ぜぜ”と読みます。おそらく難読地名の一つなのでしょうが、実は由緒ある地名なのです。大化の改新で知られる中大兄皇子が天智帝を名乗る前後に、宮殿を近江の国に移したことがありました(667)。これが歴史に残る大津宮です。この時代の朝廷へ納める魚の調理をしていた所が今の膳所の地だといわれています。お膳の“膳”という字がその名残のようです。

JRの駅でいえば膳所駅というが大津駅の東一つ隣にあります。実は筆者も、今住む京都市の前の一時期、大津市の住民でありまして、よく膳所の街に行っていたことがあるのですが、意外と膳所は繁華な街なのです。ショッピングビルあり、シネコンありで、休日には近在の若者のちょっとしたレジャースポットになっていたことには、正直驚きでした。

現在公園になっている旧膳所城跡は、今言った繁華な街からは少し東寄りの場所にあり、この城は、徳川家康の命により元々あった大津城を廃城にして移し替えられたものだったようです。膳所は地理的位置からして要衝の地なので、江戸時代には代々、譜代大名が統治していて、最後は本多氏が治めていたようです。

幕末の膳所藩に、後に歴史に名を残す人物が儒学者の家で生まれています。“天台の道士”とも呼ばれた教育家で思想家であった安政2年生まれの杉浦重剛(1855-1924)です。と言っても、戦後のアメリカナイズされた日本では、もはや忘れられた明治型硬骨漢の一人かもしれませんね。

杉浦重剛と聞いて、この名を知っているという読者は、おそらく大学入試で日本史を選択された方だけではないでしょうか。しかも、新聞“日本”や雑誌“日本人”を通じて道徳、倫理を説く国粋主義者であったという1行ぐらいの記述を目にしていただけ、と想像します。歴史教科書では、明治期によくある保守人文系の人物の一人として紹介されているだけです。したがって、杉浦重剛という名だけを知る人のほとんどが、教科書の1行知識だけでしょう。筆者も、彼の評伝を読むまではその一人でした。ところが、彼の人生にはちょっとした驚きがあるのです。意外や意外、彼の人生の船出は化学分野だったのです。やはり、歴史を知るのは教科書だけでは駄目ですね。

 

膳所の旧宅にある杉浦重剛の胸像

膳所の旧宅にある杉浦重剛の胸像

杉浦は、明治3年(1870)、膳所藩から貢進生(本エッセイ第6話参照)として東京の大学南校に送られます。時に、杉浦17歳でした。この大学南校というのは、大学東校が医学分野の学校だったのに対して、法文理系の学問用に設けられた学校でした。時代が時代なので、毎年のように学校制度が変化していきますが、東京開成学校の所属になっていた明治9年(1876)、杉浦は、文部省から留学生として英国に送られます。これは、前年に引き続き(第6話)、第2回目の官費留学生でした。本エッセイ第15話に出てきた地震学者の関谷清景もこの時の留学生でした。

化学分野と杉浦重剛という関係では、その出入口で何故、という疑問があります。まず、入り口の疑問ですが、彼の出生、キャリアを考えると、どう見ても理系人間には見えないことです。実家が儒者の家であり、幼児から儒学を学ばされていたというのに、青年期の勉学場が人文系ではなく理系だったというのが不思議の一つです。

渡英したころの彼の関心は、農業分野にあったので、英国でもその方面に道を求めています。しかし、英国での畜産中心の農業は日本には向かないとして断念しています。転じて、純粋の化学分野を学ぶことにし、当初マンチェスターの地で学んでいます。その後、ロンドンに居を移すのですが、やがて病を患って、勉学途中の明治13年(1880)に日本に帰国するはめになります。この短期間の化学の勉強では、帰国後の杉浦に、当方面におけるさしたる実績は何もありませんが、彼の思想には影響を与えたようです。

帰国後の杉浦が、なぜ化学分野の道を続けなかったのか、その理由のはっきりしないのが、化学からの出口の疑問です。やはり英国での挫折が自然科学者として生きる道に限界を感じたのかもしれませんね。時代といい、経歴といい、おそらく彼の化学知識は化学概論程度だったのでしょう。もし、化学者を続けていたら杉浦重剛の名は歴史に残らなかったかもしれません。転向後の人生が青史に彼の名を留める結果になった、という歴史の皮肉ですね。それでも英国の終身化学学会員名の中に杉浦重剛の名を残し、また日本でも当時の化学学会(明治11年創立)の会員に名を連ねていたことのようです。

人材不足の明治初期、官は貴重な帰朝生を放っておくわけがありません。病が癒えた明治15年(1882)、東大への関門である東京大学予備門長へ杉浦重剛を迎えます。この時の就任が、化学者から教育者への転換点だったようです。面白いことに、この予備門長就任時と同時代に、間接的には化学界に杉浦が貢献したとも言えるエピソードがあります。

それは、“味の素”の発明やロンドンでの夏目漱石との交流で有名な化学者池田菊苗が、東大予備門へ入学したときのことです。池田の実家は、薩摩藩の下級藩士で、当時京都にあったのですが、父親が征韓論に敗れた西郷隆盛に同調して官職を辞したため貧窮にあえいでいました。向学心に燃えていた若き池田菊苗は家出同然で京都を出奔してきた事情があり、やはり貧乏のどん底でした。ところで、東大予備門では、入学試験で2番までの成績者には奨学金を出していたようです。ところが、池田は惜しくも3番の成績でした。学費に困った池田は、予備門長の杉浦重剛に掛けあって、奨学生の対象を成績3番目までにしてもらった、というのです。近代日本の揺籃期を表すエピソードですね。この時、申し出が受け入れられなかったら、札幌農学校の方へ転向するつもりだった、と池田は話しています。もし、そうなっていたら、“味の素”も生まれてなく、日本の化学史も少し違っていたかもしれません。

 

明治15年以降の杉浦重剛は、線香花火の残り火のようなで状況で化学界と接触を持つことがあるのですが(これについては、後編で話します)、その後はもっぱら人倫・道徳を説く教育者の人生でした。彼が創設した、私塾、私立中学校を通じて幾多の人材を育てたことは衆人の知るところです。何度か官職につくこともありましたが、生涯のほとんどが在野にあっての教育者でした。

杉浦重剛は大正13年(1924)に69歳で亡くなりました。その最晩年に最後の輝きを見せた事件を紹介して本話の終わりとします。

大正3年(1914)、杉浦は、皇太子(後の昭和天皇)の倫理部門の学問掛かりを要請されています。すなわち、皇太子への帝王学を進講する役目です。言ってみれば明治天皇での山岡鉄舟の役目ですね。その役目も終わりに近づいた大正10年前後、やはり杉浦が担当していた良子女王が皇太子の妃に内定していました。ところが、ここに元老山県有朋からの横槍が入ったのです。実は良子女王の母方の家系は薩摩島津家の流れだったのですが、この家系に色弱があるという小さな理由を取り上げて反対したのです。どうやらこの背景には、人事を操る権謀家山県の政治的野望も絡んでいたようです。杉浦は、学門掛かりを辞任するとともに、成婚賛成の論陣を張って山県に対抗しました。この事件は、宮内省、言論界、眼科学界を巻き込んでの大事件となったようです。世に言う“宮中某重大事件”です。結果は、昭和の時代、われわれがよく目にした昭和天皇の横に立たれていた皇后が良子女王であった事実が示しています。

2013年11月記

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