FEMINGWAY 〜有限要素法解析など構造設計にまつわる数理エッセイ〜

第43話 文明の衝突

昨今は検定試験ばやりですね。今月、京都ではご当地検定の先駆けとなった京都検定試験の3回目が実施されます。京都出身の筆者の家内などは俄然はりきってしまい、初回で3級は受かったものの2回目受検の2級検定にも落ちてしまい、今年(2006)再チャレンジの鼻息荒く、一体どうなることやら。

京都が総本山の検定試験と言えば、もう1つ漢字検定があります。筆順がどうの、はねがどうのと枝葉末節に時間をかける漢字教育には筆者も疑問視していますが、漢字そのものは嫌いではありません。東京勤務時代の昔、秘かに検定試験を受けて1級に合格したことがあります(エヘン)。ただし、その当時の検定試験は現在の全国規模に統一化された組織のものではなくマイナーな検定試験だったので、たまたま受かったようなものです。今の検定試験に筆者の実力ではとてもとても合格するわけがありません。

さて、今回は内外の先人二人の知られざる話を通じて、西欧の科学文明と対蹠的に捉えられる東洋の漢字文明の考えさせられる話を紹介してみましょう。

江戸時代後期の画家に司馬江漢(1747-1818)という人がいました。日本史の教科書には日本最初の銅版画家と記すだけなのでその人物像は何も見えないですが、この人、相当の変わり者でした。61歳の時に70歳と年齢を9つも余計に加えて、以後それで通したり、自分で自分の死亡通知を出して世間の反応を見たりしています。

江漢は画家だけでなく、若い頃から西洋文明にあこがれ蘭学の世界にも足を踏み入れています。そんなことから、コペルニクスの地動説を各地で紹介するという、鎖国日本での科学の先駆者でもありました。

江漢と同じ時代を生きた人に、大槻玄沢(1757-1827)という蘭学の第一人者がいました。前野良沢、杉田玄白を日本における蘭学勃興の一世代とすれば玄沢は二世代の蘭学者でありました。名前からして、玄白から玄、良沢から沢の1字をもらっているほどです。

この大槻玄沢と司馬江漢は蘭学を通じた交流が多く、お互い出版物に序文を贈ったり、挿絵を挿入したりするほど仲が良かったのです。ところが、これは付き合いだして最初の頃だけでした。後には仲違いすることになります。人間世界の難しいところです。

当時の蘭学界のボス的存在となっていた玄沢の一門からタバコに関する随筆本が出版されたことがあります。ところが、これは全文漢文で書かれた難しい本でした。江漢はこれに噛み付きました。「日本の学者は漢文ばかり勉強して、中国の本をたくさん読んでは物知りを競う。西洋では表音文字という簡単な文字のおかげで科学が発達している」と痛烈に漢字文明を批判したのです。この批判をきっかけに二人は仲が悪くなりました。

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時代はずっと下がって、明治初期の北海道。有名なクラークの後をついで、札幌農学校、第2代目の教頭を務めたのがウィリアム・ホィーラー(Wheeler;米1851-1932)という人でした。有名な札幌時計台の設計者でもあったといいます。

札幌農学校といえば、後世の人がよく知る新渡戸稲造、内村鑑三といった有名人は第2期の卒業生であり、彼らは任期期間が8ヶ月と短かったクラークとはすれ違っています。彼らが直接、薫陶を受けたのはホィーラーの方です。

ホィーラーは専門が土木工学で、明治初期のいわゆるお雇い外国人の一人でありました。農学校の教頭を兼務しながら4年間ほど北海道の開拓活動に貢献した後、帰国の途につきました。帰国後、出身母校の要請で日本の教育について寄稿しています。それが以下のような内容のものでした。

「日本は何世紀もの間、自然、社会における法則、規則に関心を示さずにきた。中国の活力のない古い知識を大切にして尊敬しすぎたことも大きな飛躍が出来なかった理由である。膨大な量の文字を習得することが唯一の知識人たりえる手段……」( 高崎哲郎著“ウィリアム・ホィーラー”より。一部略す。)

事程左様に、日本の科学の遅れは漢字文明に浸り、極端な文字教育にあったという論が昔からあります。本エッセイ第12話の中で少し紹介しました有名人の漢字廃止論者もいた歴史もあります。西欧の進んだ科学文明を前にすると中国を中心とした漢字文明は分が悪い。

“文明の衝突”という言葉が使われて久しいですが、日本では漢字文明と科学文明という相容れない2つの文明の古くて長い軋轢が今後も続いていくのでしょうか。

2006年12月記

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