FEMINGWAY 〜有限要素法解析など構造設計にまつわる数理エッセイ〜

第36話 北東北旅行記

筆者の旅行スタイルは少し変わっているかもしれません。いわゆる、美景を求めたり名所旧跡を訪ねることもあるにはあるのですが、それだけでは旅に出ません。地方の知らない街を訪ね、「ああ、ここはあの人の出身地なのか」とかいうような人と土地のつながりの発見、きざな言い方をすれば人文地理の旅が好きなのです。

そんなことで、元々、せっかちな性格で美術館、博物館の類はさっさと短時間の見学で済ますのに、郷土ゆかりの人物を紹介した郷土館ではじっくり時間をかけてしまいます。

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昨年(2005)の晩秋、北東北地方を回ってきました。そのときの発見の旅で見聞した3人の人物をここで紹介しておきましょう。

まずは、日本物理学の草創期からの物理学者であった田中館愛橘です。実はこの人のことは発見というより、初めから分かっていた訪問なのですが。

岩手県の北部、もう少しで青森県という所に福岡という町があります。現在は、二戸市となって新幹線の駅もできています。すぐ北の位置には金田一という地名があったりして、ほんとうに岩手へ来たなという実感が持てる地方であります。

二戸は田中館の生誕地ということで、彼の記念館的コーナーが現代風のビル内の一角に設けられていました。いろいろ見て回った中で印象に残ったのは、老境に入った頃からの風貌です。まことに、好々爺の風貌で、その飄々とした姿で外遊するものだから、イギリスではその姿を漫画にまでされてしまったそうです。

田中館については、本エッセイ第12話第27話で紹介していますので、重複を避けて、ここでは筆者が二戸の場所で感じた田中館の感想だけにします。

晩年の写真を見ていて感じたのは、何となく応用力学の泰斗、チモシェンコに似ていることです。そういえば、二人は生誕年こそ少し開きがありますが(田中館が22年先)、田中館が96歳、チモシェンコが94歳と共に長生きした人であり、二人とも、頻繁に外遊している点も似ています。二人はどこかで出会ったことはあったのだろうかと想像したくもなりますね。

二人目はドイツ人です。前述した二戸市の西方、秋田県の北部に小坂という町があります。十和田湖に近い所に位置します。筆者らは小中学時代の地理、歴史の授業で小坂銅山として教えられた所であります。

行ってみて驚きました。奥深い山間の場所に忽然と明治が現れました。“明治100年通り”という遊歩道が設けられ、その脇には繁栄した昔の鉱山都市時代の名残りを記念にした建物が並んでいます。何しろ、全盛期にはこの山間部に3万人がいたというのですから、驚きです。当時の電力による照明は東京に負けていなかったといいます。

小坂鉱山は現在の日立、日産といった企業グループの源流と言えなくもない鉱山で、小学校の国語の教科書にも出てくる十和田湖のヒメ鱒養殖で有名な和井内貞行も一時期、ここで働いていたそうです。この鉱山の歴史を紹介してくれる記念的構築物がやはり明治100年通り脇にある鉱山事務所です。

この鉱山事務所で初めて知ったのが、ドイツ人、クルト・ネットー(Netto;独1847-1909)です。小坂鉱山というのは、筆者らはたしか銅山として教わった覚えがあるのですが、実は廃坑寸前から銅山として復活したものであり、その以前は銀山だったそうです。

明治初期の銀山時代の指導者として招かれたのがネットーだったのことです。いわゆるお雇い外国人です。有名な遣欧使節団である岩倉具視一行に随行していた大島高任(この人は幕末の歴史小説にもときおり登場する南部藩士です。釜石製鉄所の創設者でもあります)が、ドイツに立ち寄ってネットーをスカウトしたようです。

ただ、小坂時代は明治6年から10年までの比較的短期間滞在しただけで、その後は東京大学に招聘され、わが国冶金学最初の教授になったそうです。明治18年まで、その任にあたったといいます。

彼は結構、親日家だったようで、帰国後も日本の文化、風物を紹介した文章を起こしています。その中で1つ、面白いのがあります。日本人同士が道端で話すとき、お互いかがみ込んで話すことが多いと紹介しています。これは、現在の若者がコンビニの前で座り込んで話し込んでいる姿、すなわちジベタリアンの源流かもしれませんね。

最後の人は、迂闊ながら筆者は素通りしてしまった人です。

武家屋敷と桜で有名な小京都、角館から秋田市に車で向かっていると、協和町という所を通ります。この町も昨今の市町村合併の潮流に乗って大仙市という新しく出来る市域の一部になるそうですが、国道を走っていて、“物部長穂の記念…”といった小さい案内板が一瞬、目を掠めました。不運にも、そのときのドライブは台風のような悪天候の下だったので、先を急ぐだけで引き返す勇気はありませんでした。

物部長穂(1888-1941)という人は、土木分野以外の人にはご存知ない名かもしれませんが、いや、筆者も“水”関係は門外漢なので名前ぐらいしか知らないのですが、東京帝国大学・土木工学科を主席で卒業した秀才で、その著、“水理学”は戦前の土木名著100選で選ばれた中でもトップに選ばれた本であります。

協和町がこの物部長穂の生誕地で、それを記念館として公開していることを帰宅してから調べて分かり、歯軋りしたものです。協和町には道の駅があり、そこに立ち寄った際、先ほど目に掠めた案内のことの何か手がかりがないかと探してみましたがどこにもありませんでした。秋田の佐竹藩に縁のあった、江戸時代の文人、菅江真澄のことはくどいほど説明パネルがあるというのに、土地の出身者である有名な工学者については一言もないとは。前回も話しましたが、この世の中は文人偏重が過ぎるようです。

2006年1月記

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