FEMINGWAY 〜有限要素法解析など構造設計にまつわる数理エッセイ〜

第87話 ベクトル余話・続き

前回の軸性ベクトルのことをきっかけに、ベクトルのことに気が惹かれ少し数学書を復習してみた。ただし、従来の実用的で古典的なベクトル解析ではなく、現代数学風的にみるという、ちょっと高みからのベクトル見物である。しかし、これを深追いすれば、それこそ“微分形式”や“外積代数”といった現代数学でみるベクトルになってしまい、一介の工学者には分不相応になるため、ほんの入口で済ませた次第だが(笑)。

 

まずは、ベクトルの歴史話を一席。

ベクトルといえば、オランダのステヴィンが力の平行四辺形原理を考えていたというから(“理系夜話”第54話参照)、16世紀から17世紀にかけて、矢印で表す素朴な幾何ベクトルの萌芽が現れていたのだろうか。しかし、現在われわれが学校で習う回転、発散といったベクトル解析は数学史上意外に遅く確立された数学で、19世紀後半、ハミルトン創始の4元数から派生したものである(本エッセイ第18話参照)。そもそも、“ベクトル”という用語を最初に使ったのがハミルトンだったということだ。

ハミルトン以前のベクトル(ベクトルという名称がまだ無かったはずだから、厳密には有向線分とでもいうべきか)はどうだったかというと、少し興味深い歴史がある。デンマークに測量技師を職業とするウェッセル(Wessel:丁1745-1818)という数学者がいたといことだ。実は彼が、測地学や測量計算という実用面で使い始めたのが、ベクトル代数の始まりという。ところが、彼の書いた論文は、デンマーク語で書かれていたため、その後100年間も数学者仲間には忘れられていたとのことである。

歴史は無残にもウェッセルを無視して進んでしまう。そして、われわれがよく知る二人の数学者がベクトルの歴史に登場するのである。一人は、ウェッセルと同時代を生きた、熱力学で有名なカルノーの父であった大カルノー(Carnot:仏1753-1823)だ。彼が始めたベクトルの数学は、ウェッセルのものよりも劣っていたにもかかわらず後輩の数学者たちに影響を与えていたようだ。ベクトル記号の表記法の一つに、A といったものがあるが、この表記、大カルノーが初めて使ったそうだ。 もう一人は、“メービウスの帯”で有名なドイツの数学者メービウス(Möbius:独1790-1868)である。彼が、力や速度の量をベクトルで表現した最初の数学者だということである。

 

さて、今では、力学分野とは比較にならないほど濃密に利用されるベクトル解析が電磁気学分野にあるのではと思う。大学工学部での電気系あるいは情報系の学部では、ベクトル数学は必修科目になっていると思うのだが、どうだろうか。そんなことで、ベクトルの数学を深く理解しようとすれば、電磁気学分野での書籍を紐解けばいいのでと思う。今回、筆者もそうしてみた。
日常では、実用面ばかりでしか見てこなかったベクトルなので、今回の復習では、つい忘れてしまっている、「ああ、そうだった」という事実を思い起こさせてくれた。以下は、筆者の備忘録も兼ねて、そのとき再認識した興味深い話題を何点か雑談風に紹介してみたいと思う。

 

学生時代、材料力学あるいは構造力学といった科目で弾性体の力学を学び、実社会に出て構造設計に携わっているエンジニアのほとんどは、対象とする弾性体を解析するのに、知らず知らずに2つの大前提を利用している。一つは、対象の応力場をユークリッド空間で想定していること、もう一つは、その空間にデカルト座標系を設定していること。ただし、後者については、弾性体の構造によっては、円筒座標系や球座標に替わることもあるだろうが、その場合でも直交座標系であることに変わりはない。

下の話題は、この二つの前提が無いところからスタートする。また、最初に出てくる“ベクトル空間”とは、数学でいう一般的な“ベクトル空間”であって、ベクトルを元(メンバー)とし、元の間で、加法とスカラー倍の二つだけが定義されている空間のことである。

 

1. ベクトル空間には、実は常にペアとなる相棒の空間がある

相棒の空間とは、いわゆる“双対空間”といわれるものだ。双対空間のメンバーが双対ベクトルといわれるものである。双対ベクトルは、ときに“共変ベクトル”とも呼ばれ、このときは、原ベクトル空間のメンバーであるベクトルが“反変ベクトル”と呼ばれる。もちろん、両者は区別されるものである1

ここでは双対空間の詳細は省くが、この空間は次の話題に関係する。単に数学的なベクトル空間では、ベクトルの長さもベクトル間の角度もないが、この空間に内積が定義できる場合は、それらの計量が定義できることになる。この空間を“計量空間”といい、またの名を“ユークリッド空間”と呼んでいる。

ユークリッド空間では、原ベクトル空間と双対空間を同一視できることになる。したがって、エンジニアは、ややこしい空間を知らなくて済むという幸運にありつけることになる。しかし、それでも反変、共変の両ベクトルの区別は依然残る。

2. 内積とスカラー積は実は違っていた

高校数学で初めて習ったベクトルの内積は、別名をスカラー積(ドット積)という、と教えられてきたはずだ。だが、厳密に言えば、違うとのこと。

(A,B) ≠ A・B

お互いの成分同士の演算形式を見れば同じだが、内積とは本来、同一空間内のベクトル同士に対して定義されたそうだ。“内積”という日本語は、英語の“Inner Product”の訳語だと思うが、そもそも、どうして“Inner ”なのかが、これで理解できるというものだ。

スカラー積の方は、あるベクトル空間のベクトルとその双対空間内の双対ベクトルとの積を意味するという。だから、次式で表される仕事の定義式も、変位ベクトルUが空間ベクトルであり、力ベクトルFは双対ベクトルだというわけだ。

W=F・U

87-a

もちろん、ユークリッド空間では、双対空間が原ベクトル空間と同一視されるので、上の内積、ドット積での不等号式は等号式に置き換わることになる。

3. 物理界では、実は偽物が横行している

前回の話で2階反対称テンソルが軸性ベクトルに置き換わり、この軸性ベクトルが本物のベクトルではなく、ベクトルもどきということで、“擬ベクトル”といわれることを話した。実は、ベクトルだけでなく、スカラーにもテンソルにも“擬スカラー”、“擬テンソル”というものがある。

電磁気学の分野では、多くの物理量が反対称テンソルなので、“擬量”が多く存在することになる。もし、科学の歴史で、電磁気学が力学に先行していたならば、現在“擬****”と呼ばれている量の方こそベクトル、テンソルと呼ばれていたかもしれない。

擬テンソルとは呼ばれてはいないが、弾性力学でも、これに似た情況がある。弾性体の歪がテンソル量であることはよく知られた事実だが、テンソルという限り、座標系の回転に対してテンソル的な振る舞いをするはずだが、実はそうはならない。構造解析者が通常使うせん断歪の定義を使用していると、座標変換に際して、テンソル量とは異なる変換となってしまう。テンソル成分でいうせん断歪と工学成分でいうせん断歪は次の関係にある(本エッセイ第20話参照)。

87-b

4. 面積、体積には、実は負の面積、体積がある

上の3に関係することだが、テンソルの観点では、面積は2階反対称テンソルであり、体積は3階反対称テンソルだといわれている。反対称テンソルは擬テンソルでもある。実際、体積のベクトル的表現、スカラー三重積を考えると(下図)、外積演算を含んでおり(これで充分、“擬”量の資格を持つ)、結果は、座標系の取り方で正負の値を持つことになる。

87-c

有限要素法プログラムの開発時、要素剛性マトリックスの作成で出くわす積分計算で、要素のコネクティビティによっては体積が負になる経験をするのは、実に上のことに由来している。

5. 意識することが要/不要の2タイプのベクトル分類

86話から続いて、ベクトルには、座標系の取り方で様子が違ってくるという極性ベクトル、軸性ベクトル2種のベクトルのことを話してきたが、この違いは、前にも言ったように、実際のところ弾性体の解析者が意識する必要はまずない。

しかし、いかにユークリッド空間であろうとも-それだけでは空間そのものは重なって区別できなくても-共変ベクトル、反変ベクトルの姿は違って見えており、その違いの認識は特に重要となる。この両者が一致するのは、座標系が正規直交基底ベクトルで構成されるデカルト座標系の場合だけである。座標軸が非直交となる斜交座標系や曲線座標系では、両者は別ベクトルとなる。

現実問題として有限要素法プログラムなどの開発者にとって、共変ベクトルと反変ベクトルの問題がのしかかってくる局面はそんなに多くはないと思うが、一部の要素開発で例外も存在する。板要素や、シェル要素の場合では、曲線座標系の導入を必要とするケースもあるからである。

物理現象をユークリッド空間に設定したデカルト座標系で眺めていれば、無意識のうちに、本来ならば区別しなければいけないベクトル同士を、生涯その区別を知らずに終わってしまう。これを、幸運なエンジニア人生というのだろうか(笑)。

2013年8月記

  1. 共変、反変の言葉の由来は、空間を規定する基底ベクトルの座標変換での変換の振る舞いと同じ、または逆となる事実から由来している。しかし、この伝統的用語には、混乱を招く欠点があり、現代数学の世界では、ほとんど使用されず、むしろ“ベクトル”、“コベクトル”と分類されているとのことである。 []

Advertisement

コメントを残す

ページ上部へ