FEMINGWAY 〜有限要素法解析など構造設計にまつわる数理エッセイ〜

第6話 近江高島その2

近江高島駅を降りて、少し山里を登っていくと、やがて一人のお墓の案内板に出くわします。さらに細い道をちょっと登れば、少し大きめのお墓がひっそりと立っています。この墓は近藤重蔵(1771-1829)という特異な人生を送った江戸の幕臣の墓です。不幸な事件の連座として、彼の人生の最後が、ここ高島の地にあった大溝藩に幽閉されたためでした。

高島を舞台にした、近藤重蔵父子の物語は後で分かってもらえるとして、読者諸氏は近藤重蔵といわれても、ピンとくるでしょうか。歴史の教科書にその名が出ていることは出ていますよ。しかし、最上徳内ともども、江戸時代の北方探検家だったという1行ぐらいだと思います。

先走って言えば、勝海舟の生れが文政6年(1823)ですから、近藤重蔵は50年早く生まれてしまったがために、不運な人生を歩んでしまったといえるかもしれません。幕末の動乱期に生きていれば、間違いなく歴史教科書内の行数を増やした人物だと確信します。そこで、人生の晩年に高島に関係した近藤重蔵のことを、昔読んだ本を引き出しにして、ここでご案内してみたいと思います。

 

近藤重蔵は文武両道に秀でた人でした。貧乏旗本の生まれながら、子供の頃は神童と謳われ、24歳のとき受けた湯島聖堂での学問試験では最優等の結果を修めています。彼は、特に文の面では図抜けた才能があり、読書力と筆力はその生涯でいかんなく発揮されています。また、ただ単に文の人というわけではなく、行動力が旺盛な人でもありました。

重蔵の生涯を眺めて、それを舞台劇風に言わしてもらえば4幕に分かれると思います。その第1幕が、彼の名を歴史に残したシーンでもあります。時あたかも、ロシアが頻繁に南下してきた時代です。幕府の北方領土調査隊の編成に重蔵は参加願いを出します。願いかなって、持前の行動力で、あの時代に、重蔵は都合4回も択捉島に渡っています。

第1回目の渡航の際、“大日本恵登呂府”という標柱を択捉島に建てたことが、彼を一番有名にしていますね。今も、北方4島問題が話題になるとき、重蔵が建てたこの標柱のことが取り上げられているのを耳にします。

ただ、リーダーとしての重蔵が満点だったかといえば、疑問が残ります。彼の性格は、自分の考え、行動に自信が漲っているものですから、直情径行、傲岸不遜なところがあり、部下や周りの意見には耳を貸さず独断専行型の探検旅行でした。それが、一部の人間に反感を持たれ、後の彼の転落人生の遠因ともなったようです。それでも北方探検そのものは成功裏に終わり、お得意の文章力でその報告書ともども、彼の名を高らしめたものでした。

 

第2幕では、異国問題が一時的に落ち着きを見せた時期、重蔵は書物奉行に抜擢されます。ついでながら、北方探検の方は、この時期から間宮林蔵(1775-1844)にバトンタッチされた感があります。

書物奉行とは、今でいう国立国会図書館の館長なのでしょうか。行動家の重蔵にしてみれば、閑職に追いやられたようにも感じてしまうのですが、そうでもなかったらしいです。むしろ文才のある重蔵にしてみれば、水を得た魚のように溌剌と職をこなすのでした。いや、こなし過ぎて次の3幕である左遷時代を迎えてしまうのですが。

万巻の書物を読んでは、自分の考察をまとめた経済書のような書物を何冊も執筆しては幕府上部に献納しているのです。職場の先輩、同僚たちでこんなことをする人間は一人もいません。万事ことなかれ主義の職場です。書物の管理をして、日々これ無難に過ごせればいいという役人たちがほとんどです。才能あふれる重蔵には、これが耐えられないのでした。万事、執拗に意見を具申するものですから、しまいには幕閣上層部に煙たがられ、ついに大坂へ左遷されてしまうのです。

 

第3幕は、短期間ではありましたが、鬱屈した大坂時代です。ただ、この3幕では、重蔵の人生に彩りを添えた人物が登場します。大阪東町奉行与力の大塩平八郎(1793-1837)です。重蔵と平八郎は年齢に開きがあるにもかかわらず気持ちが通じるのか、親しい交流を持つことになります。平八郎があの有名な乱を起こすのは、既に重蔵が亡くなった後でした。

大塩平八郎の思想のバックボーンになっていた陽明学の祖が中江藤樹(1608-1648)です。奇縁なことに、平八郎が尊敬してやまない藤樹の居は近江の高島の地にありました。平八郎は、重蔵の死後、藤樹の墓にまいった帰り、重蔵の墓前にも手を合わしに来たといいます。

ところで、第2幕時代からそうなのですが、重蔵には私生活面で、派手な女色と華美な住居を持つ癖がありました。まあ、現在でいえば、毎日、横に載せる女性を変えてはベンツを乗り回している人間を思えばいいのでしょうか。しかし、これが禍いして、「分不相応のあるまじき振る舞い」ということで、幕府から職場の解任命令が出、ほとんど蟄居同然の形で江戸へ呼び戻されてしまいます。

 

さて、いよいよ山場の第4幕です。
重蔵には、不幸な終わり方をした先妻との間に長男がいました。名を富蔵といいます。富蔵にも、いろいろあってしばらく父親の重蔵とは離れて暮らしていました。大坂にも同行はしていません。その富蔵が、江戸に帰ってきた重蔵から別荘を借りて住むことになります。別荘隣の住人は、ちょっとワルの町人でした。境界問題がこじれて、富蔵は隣人4人を殺傷してしまいます。非が隣人にあったようなので、切り捨てご免で済んだところを、頭に血が上った富蔵が隣人の妻まで殺したことが命取りでした。富蔵は八丈島に島流しになり、連座で父親の重蔵が高島の大溝藩にお預けとなったのが、高島と重蔵のつながりの理由でした。時に近藤重蔵、56歳でした。

大溝藩に幽閉されて、重蔵は3年ほどで亡くなるのですが、その間、藩士たちは重蔵の教養の豊かさに驚き、教えられることも多々あり、多くが重蔵になびいたといいます。ちょうど、ずっと後年、牢獄にあった吉田松陰に周りの人間が影響を受けたのと似ていますね。さらに、残り人生の短い間にも、彼の能力をいかんなく発揮しています。外出許可が出た後、近辺の草花を集め、本草学の本まで作成しているのです。本当に、生まれてくる時期を間違った人物でした。

一方、八丈島に流された息子の富蔵の方です。彼は、明治という新しい時代を迎えても、忘れられたかのように長く赦免になりませんでした。明治13年になって、やっと赦免の通知が来たときは、富蔵は76歳になっていました。不肖の息子がしでかした親不孝を詫びるのに、富蔵が高島にある重蔵の墓の前に立ったのは言うまでもありません。実に父重蔵が亡くなって51年の歳月が流れていました。

2009年6月 記

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