FEMINGWAY 〜有限要素法解析など構造設計にまつわる数理エッセイ〜

第4話 小野~比良

湖西線も堅田を過ぎて小野、和邇あたりまで来ると、比良山系の山々が湖岸に迫り、一段と風景がよくなります。山は1,000m級なので、冬はスキーができ、下では夏に海水浴(湖水浴?)ができるという、他に例が少ないと思われる場所ですよ。

昔から、比良の山々から吹き下ろす風が結構強く、それが南の方まで届き、そこから一つのことわざを生んでいます。「急がば回れ」です。普通、これだけの言葉で使いますが、本当は、「急がば回れ瀬田の唐橋」と続きます。“瀬田の唐橋”というのは、古来より幾たびも戦乱の舞台になったことで有名な、あの瀬田に架かっている橋のことです。現在、新幹線がこの地を通る際、ちらっと赤い橋が見みえますが、あれが現代の唐橋です。

「急がば回れ」の由来を知るには、さらに元歌までさかのぼる必要があります。このことわざ、実は次の歌に由来します。

もののふの やばせの舟は速くとも 急がば回れ瀬田の唐橋

やばせというのは、草津市の湖岸にある矢橋の浦のことです。地図を見てもらえば分かる通り、東海道を草津から大津に向かう場合、琵琶湖が瀬田のあたりに深く食い込んでいるため、陸路を行くよりも、矢橋から舟で湖上を行く方が随分、時間が稼げたのでした。ところが、恐ろしいのが比良からの突風です。実際、たびたび突風で舟が転覆、破船されたとのことです。そんなことから、このことわざが生まれたというわけです。

 

比叡、比良山系からの風というのは、相当なものらしく、だからこそ現代ではヨット遊びが盛んなわけですね。ところが昔、風で命を落とした11人の若者たちがいました。有名な“四高生のボート遭難事件”です。昭和16年、全国学生ボート大会が開かれました。これに参加した旧制四高生(現金沢大学)のボート部学生は瀬田川河口を出発し、終点の湖北今津町に着きました。悲劇は帰路で起こりました。地理的には小野、和邇よりももう少し湖西線を北上した高島の沖合なのですが、ここを進んでいる際、強い風にあおられた高波にボートが飲まれたといいます。

筆者は最近まで全く誤解していたのですが、この遭難事件の鎮魂歌として、「我は海の子...」で始まる“琵琶湖周航歌”があるものと思っていました。また、遭難したのが旧制三高生(現京都大学)のボート部学生とてっきり勘違いしていました。四高生への鎮魂歌は別の“琵琶湖哀歌”というのがあるそうですね。琵琶湖周航歌の方は、もっと古く明治26年の作で、旧制三高生ボート部の青春歌だったのです。とんでもない間違いでした。

 

さて、比良の風の話題に筆を取られすぎたので、大急ぎで湖西の話を進めます。この辺りは昔、独立の志賀町だったのですが、平成の大合併で大津市に併合されて大津市志賀町になった経緯があります。合併当時(平成18年)の人口で約2万2千という地域なのに、小野駅に始まり、和邇、蓬莱、志賀、比良と続き、さらに北の近江舞子、北小松の2駅と、JRの駅が7駅もあるという全国的に珍しい町です。これは、湖西線を開設するとき、それまであった江若鉄道の駅をそのまま引き継いだからだそうです。

ガイドブック的に言えば、各駅にそれぞれの話題があるのですが、それは月並な案内になってしまいますので止めますが、どうしても避けられない所が一つあります。それは小野です。JR小野駅はたしか、比較的新しく出来た駅だと思います。筆者が持っている昭和56年発行の滋賀県を書いた本には小野駅がありません。

小野という名前を聞けば、歴史通の人にはすぐに想像できてしまうでしょうが、日本初の遣隋使で有名な小野妹子をはじめ、古代、小野氏一族の出生地なのです。硬骨の文人、小野篁(802-852)や彼の孫という三蹟の一人、小野道風(896-966)もこの地の出であり、各人を祀った神社がありますよ。

古代の小野という名前では、超有名な人がもう一人いますよね。篁の孫との説もある小野小町ですが、この人には伝説的な部分が多く、この地の出だとは確定できないみたいです。

2009年 4月 記

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