FEMINGWAY 〜有限要素法解析など構造設計にまつわる数理エッセイ〜

第3話 大津

以前、筆者は少しの間、大津市内に住んでいました。滋賀県庁近くの閑静な場所でした。大津に来て初めて知ったのですが、当地は交通の便が非常によく、それでいて静かな街であり、しかも毎日眺める琵琶湖の景色が何よりも癒しになりました。たまたま新聞記事に出ていたのを見たのですが、琵琶湖は世界でも3番目に古い湖だそうですね。

休日、ヨットが湖面にとまる蝶々のように見える琵琶湖を横目に沿岸を散歩すると、なんとも言えない心地よさですよ。京阪神に近いので、よくぞ今まで、デベロッパーによる乱開発に遭わなかったものだと感心したものです。筆者はすっかり大津が気に入って、自分の入る予定の墓を広島県より大津市北部に移したぐらいです。

 

当時、筆者は毎日、地方裁判所の横を通って通勤していました。今から、120年ほど前の明治24年(1891)、日本中を震撼させた大事件の審判がここで(当時の地裁の場所は今とは少し違うようですが)なされたとは、この前を通るどれほどの人たちが知ることでしょうか。

後に“大津事件”と呼ばれた大事件は滋賀県庁近くの京町通りで発生しました。日本を遊覧中のロシア皇太子ニコライ(後の皇帝ニコライ2世)は、三井寺を見学した後、休憩のため一旦、滋賀県庁に入ります。昼食後、京都への帰路についた矢先、なんと津田三蔵という警備中の巡査に切りつけられたのです。その時に使用されたサ-ベルは滋賀県庁内に保管されていると聞きましたが、今もそうなのでしょうか。筆者は地元博物館の一時的展示で、錆びたサ-ベルを一度だけ見たことがあります。

大津事件の衝撃の大きさは、政府レベルはもちろん、庶民レベルでも相当なものだったようです。関東在住の一女性が京都までやって来て、ロシアへの詫びの意味で、京都府庁の前で割腹自殺をしたかと思えば、名前に“津田”や“三蔵”と付けることを禁じたという地方ニュースまであったそうです。

しかし、後世の歴史では、大津事件は事件そのものよりも、司法権の独立を守ったという裁判事例の方が印象の強い事件ですね。間違いなく、日本の司法史上、最重大の裁判ではなかったでしょうか。その主人公、児島惟謙という人物名は日本史の受験生には絶対記憶しておくべき人物名なでしょうね。

大津事件とその後の裁判騒動の詳細については、作家の吉村昭さん著、“ニコライ遭難”に語り尽くされていますので、関心ある方は、そちらを読んでいただくとして、ここでは、この一連の騒動場面を演じた役者たちの後日談に触れてみたいと思います。

まず、事件シーンの主人公の二人、津田三蔵(1854-1891)とニコライ(1868-1918)です。ロシアとの関係悪化を恐れて、執拗に死刑執行を叫ぶ政府の司法干渉から、判事たちに守られた津田は無期徒刑となりますが、最期は北海道・釧路監獄所で迎えます。急性肺炎が死因といいます。事件を起こしたのが5月であり、亡くなったのがその年の9月といいますから、何か腑に落ちないのと、あの裁判騒動は一体何だったのだろうかというあっけなさですね。

もう一方のニコライの方ですが、彼が不幸な結末を迎えたことは、多くの方がご存じでしょう。皇帝ニコライ2世となった彼は、ロシア革命の犠牲となり、銃殺されてしまいますね。

実は事件シーンには二人の脇役もいるのですが、彼らのことは、最後に回して、先に裁判シーンの主人公、児島惟謙(1837-1908)について紹介したいと思います。

児島惟謙といえば、ほとんどの方は大津事件のことでしか、ご存じないと思いますが、彼は、幕末時代、伊予・宇和島藩出身のれっきとした勤皇の志士なのでした。長崎では、坂本竜馬らとも交流を持っているのですよ。

明治になって、司法卿江藤新平に眼をかけられたこともあって、司法畑を渡り歩き、ついに大審院長という最高官に就くようになります。彼にとって、幸か不幸か、大審院長の就任直後に大津事件が起こったことになります。でも、この事件がなかったら、児島惟謙という名は日本史の教科書に載らなかったでしょうね。

ところで、この裁判騒動では、児島はちょっと得をしています。後世の人たちは、大津事件の裁定を下したのが児島惟謙だと思いがちですが-筆者もしばらくそうでしたが-実はそうではないのです。よくよく考えれば分かることですが、大津裁判という地方裁判の裁判員の席に大審院長が就けるわけがないですよね。彼の果たした役目というのは、政府側の超越的行為による司法干渉を排除しようと、司法側の矢面に立ったことです。このことが、司法権の独立を守った人ということで司法史に記憶されたわけです。実際に裁定を下したのは、もちろん大津裁判所の判事たちです。ですから、裁判シーンの舞台には児島惟謙は登場しておらず、裏方の役目だったのです。

そして、大津事件の翌年、児島惟謙もちょっとした事件に巻き込まれ、大審院長を辞任しています。大審院の判事たちが起こした花札事件の責任を取らされたのです。なんだか、前年の恨みを根に持つ政府の嫌がらせの臭いもしますね。後には、衆院議員や貴族議員になったりしていますから、役者たちの中で唯一、児島惟謙がまっとうな人生を終えた人と言えるかもしれません。

次に、この事件の脇役の話をする段になったのですが、一人、忘れていた裁判シーンの脇役の人物を先に紹介してみたいと思います。この人物も他の役者同様、不幸な終わり方をしています。

大津事件が起こった当時、司法大臣を務めていたのが山田顕義(1844-1892)です。このころ、山田は、伊藤博文、井上馨、山形有朋らについで長閥のNO.4の地位にありました。この人、あまり目立たなかった人ですが、松下村塾出でもあり、幕末の蛤御門の変から西南の役まで、常に前線に出ていたという歴戦の元軍人でした。元と言ったのは、先輩山県有朋による軍部内押しやりの結果、司法畑に転任したからです。おそらくは、年下のライバルに己の地位確保を危ぶんだ山県の策謀だったといわれています。もっとも、山田自身は、後に日本大学(法律専門の学校として出発しています)の学祖として崇められたように、司法関係に随分と関心を持ち、打ち込んでいましたが。

大津事件に出くわして、山田は、行政側と司法側の間に挟まれ、辛い立場にありました。司法畑にいて司法の独立は理解していても、政府の一員としての立場もありました。特に内務大臣を務める西郷(大西郷ではないですよ。弟の方ですよ。念のため)の声の大きさをかわすのに一苦労でした。結局は、裁判の結末を受けて、長年席を温めていて司法大臣を辞めざるを得なかったわけです。

先に言った彼の不幸とは、このことではありません。山田顕義の人生の終わりにミステリーがあるのです。大津事件の翌年の明治25年、彼は50を前にして急死してしまうのです。旅路の途中寄った兵庫県の生野銀山の坑内でのことでした。死因は、一応、病死とも、足を滑らした転落死ともいわれています。ところが、頭がい骨の傷痕から、暗殺死説も出ているのです。

 

さて、最後に残った脇役ですが、ニコライが切られた際、津田三蔵に掴みかかってサ-ベルを落させた一人と、落されたサ-ベルを拾い、逆に津田に切りかかった一人がいました。ともに、人力車の車夫でした。一人は、石川県の人で、もう一人は京都在住の人でした。二人は、この時の功労で、日本政府からは年金を、ロシア側からは莫大な一時金と終身年金をもらうことになりました。考えさせられるのは、この二人のその後の人生です。

石川の方の人は事件後、地元に帰り、郷土の誇りだということで、周囲から拍手喝采で迎えられ、地方の議員にまで祭り上げられています。それが、日露戦争が勃発すると、周りの人たちは、手のひらを反したように、敵国ロシアから金を貰った国賊だと言って、彼と家族は批難を浴び、石を投げられたりする有様です。とうとう村八分にされてしまった生活になったようです。どうしようもない醜い人間の性を見せつけられる思いですね。

京都の人の場合はある意味、教訓的でもあります。しばらくは堅実な生活を営んでいたのでしたが、やがて、慢心してしまいました。愛人を囲ったり、いろんな事業に手を出したりしていたのが、日露戦争で当然、ロシアからの金を断たれ、落ちぶれてしまいました。最後には、屑拾いにまで落ちたそうです。普段、金を持たない人間に大金が入ると、こうなるという悪い典型例ですね。
しかし、この車夫のことを笑うことはできませんね。われわれは、間近に例を見ているではないですか。ホリエモン事件を始め、語学学校、介護派遣会社、留学システム会社といった破綻した企業で発覚した元社長の金の使い方を見るとどうですか。最近も、破滅した音楽プロデューサーの全盛時の豪遊ぶりも教えられましたね。

人間の品格程度が金の使い方で分かりますね。おそらく、本エッセイの読者は、エンジニアーの人たちがほとんどと思いますので、大金を持った場合の心配はないですか。筆者が所々で言ってきましたように、“工”の分野は日本ではBクラスの扱いのため、ノーベル賞でも貰わない限り、大金の入りようがないですね。でも、親からの莫大な遺産が入ったときは、気をつけてくださいよ(笑)。

なんだか、大津のことよりも大津事件のことに終始しましたが、最後に、大津について、ここだけのお得情報をご案内します。

 

【お得情報】

桜の季節、紅葉の季節に京都に行かれる方が多いと思います。このとき悩むのが、宿泊地の確保ですね。この時期の京都のホテルの予約は困難です。無理に不便な場所で確保するよりは、このときは大津市のホテルに宿泊することをお勧めします。大津市街にはそれほどホテルがあると言えませんが、京都市内で取れないときは一度考えてみてはと思います。

JRだと大津駅から山科駅まで5分、京都駅まで10分です。へたに京都市内でホテルを取るよりも、よっぽど便利ですよ。
さらに、筆者が推奨するのが、京阪電車で京都市内に入る方法です。京都観光の人は、何も京都駅に行くわけではありませんよね。嵐山、大原へと行くわけですね。それを考慮すると、京阪電車を利用する方法を勧めますね。

京都は地下鉄が少なくて観光者には不便なのですが、京阪電車は地下鉄線にも乗り入れており、最近も路線が延長されたので一考ですよ。大原、二条城、太秦方面あるいは街中の新京極方面に行くには、大津宿泊、京阪電車の組み合わせがお勧めですよ。

2009年3月 記

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