FEMINGWAY 〜有限要素法解析など構造設計にまつわる数理エッセイ〜

第24話 学閥の源流地

4月中旬、岡山県の山間部を旅行してきました。古い呼称でいう美作の国です。美作と言えば、昔映画、テレビの時代劇でよく登場していた「作州浪人・宮本武蔵」というセリフがつい出てきそうな筆者です。ただし、今回は武蔵の故郷ではなく、津山市が中心でした。津山の地に足を入れたのは、実に40年ぶりのことでした。

津山と言えば、吉井川が流れる山紫水明の城下町として知られ“西の京都”と呼ばれたところです。ここのお城“鶴山(かくざん)城”は桜の名所として、つとに有名ですが、今年は全国的に桜の開花が早く、筆者が訪れた時は、残念ながら花が散った直後でした。

鶴山城はもちろん津山藩のお城ですが、この城を築き、現在の津山市の礎となる城下町を作ったのは、あの本能寺の変で織田信長の脇にあって若死にした森蘭丸の兄の森忠政ということです。しかし、森家は幕末まで続くことなく、4代で途絶えました。この森家の不幸というのが、ちょっと特異な事情なので、紹介してみたいと思います。

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ことのきっかけは、徳川5代将軍綱吉の有名な“生類憐れみの令”でした。犬を収容する犬小屋の建設を津山藩が命じられたとのことです。犬小屋と言っても、敷地が何と40万平方メートルという大施設でしたから、藩の財政も逼迫し、その心労から時の当主は、27歳の若さで亡くなってしまいます。このままでは、お家断絶とばかり、あわてて叔父にあたる人が養子になることを幕府に認めてもらうため、江戸へ急行したのです。ところが、どうしたことか、この叔父が旅の途中で発狂してしまい、ことここに至り万事休すとなったのです。

森家の後を継いで入封したのは、名門の福井藩の流れをくむ松平家でした。この大名家は幕末まであまりぱっとしない存在だったのですが、江戸時代も後期に入ると、藩内に幾多の人材を輩出することになるのです。いわゆる“作州洋学”と呼ばれた学派を形成した人たちです。現在、城郭の場所から少し東寄りの所に昔の町並みを保存した地区があるのですが、ここの一郭に、津山洋学資料館というのがあります。この資料館では詳細な“作州洋学”の人物紹介がなされています。

日本には、学者家系と呼ぶべき有名な一族が何家もありましたが、ここ津山には二派の源流とも言える人物が二人いました。宇田川家の宇田川玄随と箕作家の箕作阮甫です。以下は、歴史教科書に掲載されるほどの人物に絞って、この2家の流れを眺めてみたいと思います。

まず、宇田川家では下の流れとなっています。

宇田川玄随 (1755-1797)
 ↓
宇田川玄真 (1769-1834)
 ↓
宇田川榕庵 (1798-1846)

■玄随は、生まれが宝暦5年といいますから、2歳年下の大槻玄沢(1757-1827)と同世代です。大槻玄沢といえば、解体新書で知られる前野良沢、杉田玄白からそれぞれ名前を1字ずつもらい日本の蘭学史では2世代目の人ですから、玄随も2世代目といえるでしょうか。

実は最初、玄随は漢学に秀でた漢方医だったのです。それもそのはず、実家が漢方医だったのですから。それが蘭方医に転じたのは、杉田玄白ら蘭学創始者たちとの交流がきっかけのようです。内科が漢方医の専売特許だった時代に、“西説内科撰要”という西洋内科の大著を翻訳刊行し、一躍宇田川家の名を広めたようです。

 

■玄随の後を継いだ玄真は、大変な勉強家で翻訳力では当代随一と言われたそうです。“大腸”、“小腸”という人体用語も玄真による訳語とのことです。また、先の津山洋学資料館の資料によりますと、リンパ腺の“腺”、膵臓の“膵”という字も玄真が考案した字とのことです。すなわち漢字ではなく、国字ですね。

玄真には、ちょっとした面白いエピソードがあります。若いころ、杉田玄白の屋敷に転がり込んだ時期があり、その才能を玄白に見込まれ、娘の婿に迎えるべく養子縁組したことがあります。ところが、若気の至りというか、玄真に放蕩三昧の生活が始まり、これがなかなかおさまらず、ついには杉田家から離縁されてしまったということです。

 

■三代目の榕庵の時代ともなると、蘭学も単に医学だけでなく、植物学、化学方面への広がりを見せています。植物学では、かのシーボルトとも江戸で交流を持っています。

榕庵の名を一躍有名にしたのは、日本で初めての本格的な化学書だった“舎密開宗”の刊行です。“舎密”とは、オランダ語で化学を意味する“セーミ”からの当て字です。筆者の記憶違いでなければ、ここで使用された“舎密”という言葉が、明治初期に“化学”に改められるまで続いた化学を意味する用語の嚆矢だったと思います。この化学書の中で使用された化学関係の造語に今も使われている下記のものがあるのですが、全く驚きですね。

 

“酸素” “水素” “炭素” “ 窒素” “酸素” “還元”

 

宇田川家は、玄随の父の代から津山藩に抱えられた藩医で、玄随も江戸藩邸で生まれています。しかも、玄真、榕庵二人とも他藩から来てもらった養子であり、さらに代々江戸詰めの勤務だったから、正直、津山人とは呼べないところもあるのですが、現在、三代並んだ宇田川家の墓が津山市内にあるとのことです。

次は箕作家の系譜です。箕作阮甫には、4人の娘がいて(次女は夭折)、彼女らの嫁ぎ先からもそれぞれ名を残した人材がいますので、閨閥も含めると壮大な系譜となっています。例えば、“理系夜話”第10話に登場してもらいました地震学者・坪井忠二も阮甫の玄孫にあたります。全貌をとても紹介しきれませんので、ここでは、阮甫の二人目の養子に入った秋坪の系統だけに絞り、さらに比較的一般によく知られた人物だけにとどめます。

箕作阮甫 (1799-1863)
 ↓
箕作秋坪 (1825-1886)
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菊池大麓 (1855-1917)
 ↓
菊池正士 (1902-1974)

■阮甫は宇田川家の人たちと同じく、その活躍の場が津山藩内ではなかったですが、生まれも育ちも津山であり、正真正銘の津山人でした。最初、津山藩の漢方藩医としてスタートしますが、江戸に出て宇田川玄真に蘭学を教わったことが、彼の向学心に火をつけしまい、ついには押しも押されもせぬ蘭学者になってしまいます。翻訳を通じて、彼が立ち会った場面は、日本史上で重要な局面でした。ペリー来航時の翻訳、ロシアのプチャーチンとの交渉、さらに薩摩藩が国産第1号の蒸気船を完成させた幕末史の裏方には阮甫の翻訳があったとのことです。先の津山洋学資料館のすぐ隣りに、今も阮甫旧宅というのが保存されています。

 

■秋坪は、阮甫の最初の養子、省吾(長男が明治期の有名な法律家となる箕作麟祥)が26歳という若さで亡くなったため、新たに養子に入った人でした。彼の生まれは、津山の西に隣接する今の真庭市で、まあ地元の人でした。阮甫は、彼を大坂の適塾で学ばせた上、婿養子に取ったようです。養父阮甫の関係からか、徳川時代は、翻訳業を通じて外国交渉役に随行して、西欧、ロシアに派遣されていました。

むしろ活躍は教育家、啓蒙思想家としての明治初期であったのではないでしょうか。当時、慶應義塾と双璧をなしたといわれている“三叉学舎”という洋学塾を東京の津山藩邸内に開設したといいます。ここには、若き日の東郷平八郎や原敬ら多くの著名人が学んだそうです。そういえば、現在の政治家、平沼赳夫氏は、形の上では戦前の総理大臣を務めた平沼騏一郎の孫にあたる(両親が騏一郎の養子に入る)のですが、この平沼騏一郎も元は津山藩士であり、三叉学舎に学んでいたそうです。その由縁からか、今も平沼赳夫氏の選挙地盤は岡山県になっています。

閑話休題。秋坪は、有名な明六社のメンバーの一人でもありました。

 

■菊池大麓は、秋坪の実家の性を名乗っているので、箕作大麓ではないのです。彼については、既に“理系夜話”の第15話、第37話、第46話で紹介していますので、ここでは割愛させていただきます。

 

■菊池正士は、彼が生きた時代の日本の原子力研究の第一人者であり、原子力開発の指導者でありました。現在、生きていれば原子力問題で矢面に立たされていた人物だったかもしれませんね。その意味で、幸運な時代に生きた人かもしれません。昭和26年に文化勲章を受賞しています。

美作地方で、発祥した人材の流れというものは、吉井川の如く滔々と流れるのでしょうか。箕作家一族の系譜を眺めれば、ため息が出るほどですよ。最後に、学者系譜ではないのですが、やはり美作から湧きでた政治家一族の流れを紹介して今回の終りとします。

津山市を少し西に行った所に、勝山という古い町並みを残している所があります。今は真庭市に属していますが、江戸時代、美作勝山藩の領地だったところです。この勝山藩江戸藩邸内で、安政3年、一人の男の子が生まれました。明治初期、貢進生として選抜されたことから明治政界の出生街道を歩むことになる鳩山和夫です。華麗なる鳩山一族の源流こそ鳩山和夫なのです。現在の鳩山由紀夫氏、鳩山邦夫氏の選挙地盤はそれぞれ北海道、福岡になっていますが、源流の地は美作なのですよ。

鳩山和夫 (1856-1911)
 ↓
鳩山一郎 (1883-1959)
 ↓
鳩山威一郎 (1918-1993)
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鳩山由紀夫・邦夫 (1947-/1948-)

2014年初夏記

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