FEMINGWAY 〜有限要素法解析など構造設計にまつわる数理エッセイ〜

第21話 明治9年組留学生の2人・後編

前回、明治9年(1876)に文部省から第2回目の官費留学生として杉浦重剛が選ばれたことを紹介しました。このとき、杉浦と同じ英国に、さらに同じく化学を学ぶ目的で派遣された人物がもう一人いました。加賀藩出身の桜井錠二(1858-1939)です。桜井の方は、杉浦と違って、生涯化学者であり続けました。それで、世間一般には杉浦ほど名が知られていないかもしれません。

桜井錠二は安政5年(1858)の生まれですが、幼少のころに藩士だった父を失い、さらに明治維新を迎えて一家の家計は非常に苦しかったそうです。維新当時は、4人の子どもを育てるため孤軍奮闘したのが母親であり、彼女はまさに孟母のタイプで、子どもの教育を重視しました。藩の貢進性として選ばれた長男の房記を東京の大学南校に送った明治3年の翌年、一家は金沢を出て東京の房記のもとに転がり込み、今度は錠二を大学南校に入学させています。時に錠二、13歳の若さだったといいます。兄弟ともに優秀だったわけですね。

本話とは直接関係ない話ですが、少し兄の桜井房記(1852-1928)の方を紹介しておきますと、彼は典型的な明治知識人のエリートコースを歩んでおり、終生、理学面の教育者を務めたようです。東京師範学校の教授を勤めていた当時は、物理学校(現在の東京理科大学の前身)の創設に、晩年は当学校の指導者として貢献しています。面白いところでは、後年、熊本の旧制第五高等学校の校長を務めていた時期、夏目金之助(後の漱石)が英語教師でやってき、二人は親交を温めたというエピソードです。

さて、弟の桜井錠二の方に話を戻します。桜井錠二は、数学での菊池大麓、あるいは物理での山川健次郎の役目を化学部門で果たした人と言えるのではないでしょうか。すなわち黎明期の日本で、近代科学の地ならし役の一人だったのです。しかし、前二者が、学術面での貢献に見るべきものがないのに比べて、桜井の方は何点かあるようです(筆者は化学分野の門外漢なので、その具体例はわかりませんが)。

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ところで、前編での主人公杉浦重剛と今回の桜井錠二といえば、同時期に同じ英国に、しかも同じ化学を学ぶために留学している二人なのに、英国滞在時はおろか帰国後の交流といった形跡がどこにも記載されていないようです。片や和魂洋才型の思想・教育者、片や純然たる科学者となると、お互い相容れない間柄だったのでしょうか。夏目漱石と池田菊苗の関係のようにはいかなかったようです。むしろ、化学用語の訳語論争では、二人は相反する立場をとりました。

明治初期、そもそも“化学”という用語もオーソライズされた言葉ではありませんでした。江戸時代の蘭学者が、オランダ語からの音訳した“舎密(せいみ)”がまだ幅をきかせていました。明治中期でも、舎密を使った社名の化学関係の会社の創設もあったということです。ましてや、化学分野の専門用語ともなると、同じことを意味するも用語が不統一なため混乱が生じていたようです。そこで、近代化学を導入するにあたっては、まず訳語統一の問題が提起されています。ここで、中心的に動いたのが桜井錠二なのですが、これに異を唱えたのが杉浦重剛でした。この時、杉浦は既に化学界を去った後なのに、なぜ、この問題に首を突っ込んだのか不思議に思いますが、ともかく統一には反対したようです。杉浦は、教育者としては若者に寛大精神で接していた逸話も多くあり、また官僚的な形式主義を嫌悪していたといいますから、なんとなく思想面の観点から出てきた意見とみなせば納得できる話ですね。一見、杉浦の考えは柔軟思考でいいように思えますが、やはり科学という世界では通る意見ではありませんでした。

ここで、脱線話をさせてください。上の舎密→化学で見たように、明治初期には、いくつかの学問分野の名称が変更されています。舎密以外にも、たとえば、究理が物理に、造家が建築という具合に。新旧名称とも2字の漢語です。学問、年号といった幾多の種類があるものは、その名称は2字漢語が一番ふさわしい、と筆者は思うのですが、読者の皆さんいかがでしょうか。

先の国の省庁の再編で、2字漢語+2字漢語の省庁名が出来ましたが、これは、合併した銀行が、合併前の両銀行の綱引きの結果、顧客無視の冗長な銀行名にしているのと変わりありません。一方、大学の方もそうです。先端分野を誇りたいためか、“システム”などのやたらとカタカナ語を追加したり、また時代の潮流に併せて何かと言えば“環境”という用語を付加した長い学科名になっていて、一体何を専門とする学科か不明となり感心しません。以上、旧人類の嘆き節でした。

閑話休題。英国から帰国後の桜井錠二は、東京大学の教職を通じて、理論化学、言い換えれば純粋化学に専念し、英国流の指導原理で彼の後輩たちを導きました。日本における“近代化学の父”と言われる所以です。ところが、ある期間、桜井は日本の化学界では、孤立状態だった時期があります。

日本では、明治11年(1878)に化学会が創立しています。しかし、前年に出来て、しばらく数学、物理両分野の人たちの交流が続いた数学会のように、化学会は一枚岩とはいかなかったようです。明治14年(1881)の帰国後の桜井は、化学界の指導的立場にありながら、明治16年から3年間、学会の会長職を務めた後、しばらくは化学会とは離れた状態にありました。といいますのも、時代が、富国強兵、殖産興業の時代であり、西欧諸国に追いつくことが先決の日本にあって、化学技術の輸入、物マネ生産が優先され、分子がどうの原子がどうのと、理屈っぽい話を展開する桜井の純粋化学は敬遠されてしまったようです。明治31年(1898)には、ついに応用化学を中心とする工業化学会なる別の化学者団体までが創設されることになりました。化学界での反乱ですね。もちろん、こちらのメンバーは既存工業を志向する化学関係者たちでした。

それでも、時代が進むと、応用化学だけの化学では行き詰まりがあり、世界からは置いてゆかれるという危機感が化学界に起こり、ここにいたって桜井錠二の真価が改めて認識されるようになったのです。明治36年、彼は再び会長職の座に就いています。

後年の桜井には、有名な理化学研究所創設時の活躍話もあるのですが、本話では、そこまでは行かず、ここでThe Endとさせていただきます。

2013年12月記

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