FEMINGWAY 〜有限要素法解析など構造設計にまつわる数理エッセイ〜

第9話 越前散策

初夏の一日、福井市への小旅行をしてきました。歴史好きの人間には、一度は訪れたい場所ですが、筆者には二度目の訪問でした。40年近く前の一度目の訪問時は、知る由もなかったのですが、姉妹エッセイ“理系夜話”第53話”で紹介しました百年ほど前の世界的地震学者大森房吉の生誕地でもあります。彼は、越前福井藩の下級藩士の家で生まれているのです。

地元観光ガイドの歴史マップによると、JR北陸線を挟んで福井城跡(現在の県庁場所)のある場所とは反対側にある彼が通った小学校に隣接する公園内が生誕地だとありました。早速行ってみたところ、残念ながら公園のリフォーム中で石碑がどこかに退避させられていたようで何もありませんでした。

しかし、旅に出れば何か新しい発見があるものですね。大森の生誕地のほど近い所に、岡田啓介の生誕地を記念する石碑を見つけました。聯合艦隊司令長官、海軍大将、海軍大臣と海軍畑の頂点を登りつめた岡田啓介です。昭和9年には福井県初の首相に就任し、昭和11年に起こった2.26事件では、かろうじて難を逃れた首相で歴史教科書でも有名な人ですね。私ごとの話で恐縮しますが、昔、筆者の長男が生まれたとき、命名にあたって、音感の類似性から恐れ多くもこの岡田啓介から拝借した経緯があり、思わぬ表敬訪問ができて嬉しかったです。

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大森房吉(1868-1923)と岡田啓介(1868-1952)の二人は幼馴染だったそうです。ともに1868年生まれで家が近所となれば当然そうなるでしょうね。しかし、面白いことに岡田は江戸人で、大森は明治人です。岡田の誕生月は正月であり、大森は、慶応から明治と改元された9月8日の直後に生まれているからです(ともに旧暦)。

 

さて、来た道を取って返し、繁華なJR福井駅の反対側に出て、市内を流れる足羽川沿いにある歴史ロードを歩いていると、二人並んだ銅像に出くわします。一人はアメリカ人グリフィスでした。彼のことは、後で話すとしまして、もう一人の人物(日本人)のことです。この人は、日下部太郎という人とのことでした。筆者は不学にして、この人がどうしてグリフィスの横に立っているのか分からなかったのですが、地元の歴史館で買ったガイドブックによると、悲運の物語があったそうです。以下、ガイドブックと歴史館での解説文によります。

日下部太郎(1845-1870)は弘化2年に、やはり福井藩の中級藩士の家で生まれました。旧姓は八木八十八(やそはち)と言って、漢数字の八が3つもある珍しい名前でした。藩校に通っていた少年時代から優秀で、内地留学の長崎では有名なフルベッキに教わり、慶応3年(1867)には福井藩で最初の海外留学生としてアメリカに渡っています。アメリカではニュージャージー州にあるラトガーズ大学に入学しています。勉学態度が非常に真面目で、ここでも成績優秀だったそうで、卒業間近まで首席であったようです。だが、非常に残念なことに、卒業を前にして結核で病死してしまい、異国の地に眠ることになります。時に25歳の若さでした。彼の無念さたるや推して知るべしです。ここにも後年の滝廉太郎(1879-1903)の悲劇物語の先例があったわけです。滝もドイツ留学中にやはり結核を患い、無念の帰国後、夭折してしまいます。彼は24歳の生涯でした。

卒業を果たせなかったとはいうものの、日下部の成績優秀さと勤勉性を讃え、大学側は、卒業名簿に彼の名を記載し、加えて成績優秀者に与えられるというゴールドキーというものを追贈したといいます。もう少し生きていれば、間違いなく明治日本のどこかの分野で名を残した人物だったのでしょう。

日下部のラトガーズ大学時代、彼にラテン語を個人教授していたのが、年齢が2歳上のグリフィスでした。奇しくも、縁があって日下部の故郷福井の地へ招聘されたグリフィスとの関係を記念して建てられたのが、二人の銅像だったわけです。

グリフィス(W.E.Griffis:米1843-1928)は、いわゆるお雇い外国人の一人で、明治3年(1870)に来日しているのですが、それ以前、母国において既に多くの日本人留学生と接触しています。日下部の他にも横井小楠の二人の甥、岩倉具視の二人の子息、勝海舟の子息と日本の指導者達の近親者が何かとグリフィスから教えを受けています。といっても彼らが、その後の若き日本丸で活躍したという話は聞いていませんが(笑)。例外もあります。後年の東京工業大学の前身、東京職工学校の創設にも尽力し、日本の工業教育の父の一人とも言える手島精一(1849-1918)がグリフィス家に下宿していたという話もあります。

ところで、グリフィスという、日本ではあまり聞きなれない名前を聞くと、工学方面の読者は、弾性体の亀裂理論の先鞭をつけたグリフィスを思い浮かべるかもしれませんね。しかも、W.E. グリフィスは日本では化学、物理を教えていたというので、ひょっとしたらと想像しますが、残念ながら、こちらのグリフィスは、半世紀後の生まれの人で、しかも英国人であり、全く別人物であります。

徳川幕府が崩壊してしまった後、越前福井藩では新しい学問の習得を目指して、化学、物理、特に化学の先生を海外に求めていました。東京の中央政府ではなく、地方の行政府が直接、お雇い外国人を求めたのはこれが最初らしいです。この相談の相手に選んだのが、幕末から日本に来ていたフルベッキです。彼を通じて、グリフィスに白羽の矢を立ったのです。

ですが、グリフィスは化学、物理のスペシャリストではありません。元々、グリフィスは母国では牧師の道を目指していた人です。日本へは、教育者として迎えられたはずです。今の感覚でいえば、大学の教養学部の先生というところでしょうか。もし、日本がもう少し時代が進んでいれば、日本での活動はなかったかもしれません。わずか1年弱ほどの福井藩での滞在の後、東京へ移動することになります。これは、廃藩置県が実施されて藩がなくなり、有能な若者が多く東京へ行ってしまったためです。東京では大学南校、開成学校で化学教授を務め3年間ほどを過ごした後、帰国しています。

グリフィスはむしろ、文筆家でした。4年間ほどの、比較的短期間の日本滞在にもかかわらず、旺盛な好奇心で日本の歴史、地理、風土などを知得し、それらをまとめ、“ミカドの国”として何冊かの著作物で日本のことを世界へ向けて紹介しています。

今回の越前散策の旅行をきっかけに、筆者も、グリフィス著の“明治日本体験記(山下英一訳、平凡社・東洋文庫)”を読んでみました。異国人であるグリフィスが、どうしてこんな事まで知ることができたのかと不思議に思うぐらいの記載内容が多くあるのですが、これには、グリフィスの脇には常に付添人がいたようで、彼らが情報提供者だったのでしょうか。

上の著書で知ったことですが、グリフィスには、わが日本史にとっては印象に残る邂逅場面を2つ持っているのです。まずは、少年期のことです。父親に連れられてデラウェア川で行われた船の進水式に行ったことがあります。そこで見た軍艦こそ、後に開国を迫って日本にやってきたマシュー・ペリー提督が乗船していたサスケハナ号だったのです。

もう一つは、藩の葬式の場面です。中央政府からの廃藩置県の通告により、全国の多くの藩で行われたであろう城内大広間での藩主と藩士の最後の別れの儀式の一つを、グリフィスは期せずして見ることができたのでした。明治4年当時も何人かのお雇い外国人がいたでしょうが、ほとんどが東京在住でしょうから、こんな体験をすることは不可能だったでしょう。地方都市に招かれていたグリフィスは貴重な体験をしたといえるでしょう。

昭和2年(1927)、福井の人たちは恩人グリフィスを福井市に招きました。彼にとって実に55年ぶりの福井の街でした。この時に撮ったと思われる着物を着た夫妻の写真が今も郷土歴史館に残っています。グリフィスも84歳の高齢でした。帰国後の翌年、亡くなったようです。

2012年7月記

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