FEMINGWAY 〜有限要素法解析など構造設計にまつわる数理エッセイ〜

第53話 日本から生まれた科学

降る雪や 明治は遠くなりにけり

後に国民的俳句ともなったこの有名な句を、明治生まれの俳人中村草田男が詠んだのは昭和6年のことだったそうです。それからでも76年も過ぎ去った今(2008年当時)では、もはや明治は視界から消えたのも同然ですね。

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筆者には明治18年生まれの曽祖父がいました。子供のころ、広島県の田舎へ行くと、夏の夜、床机台に座り除虫菊(昔、蚊取り線香の原料でした)の枯れ枝を燃して蚊を追いやりながら、そのおじいさんから昔話を聞くのが常でした。

田舎にはテレビも無い時代だったですから、おじいさんの話は楽しみでもありました。戦争中の話が多かった記憶があります。太平洋戦争ではないですよ、日露戦争の話ですよ、念のため。懐かしい日本の原風景の1つであります。

当たり前と言えば当たり前ですが、子供のころ身近だった明治が全く遠くになってしまいました。今年(2008)95歳の人では明治生まれではありません。

高校時代、明治維新から100年ということで、大学入試の日本史の試験問題は明治物が多くなるぞという予想が生徒間で広まったことを思い出します。明治100年といっても今度は明治が終わって100年という時代を迎えるわけですね。

さて、前置きが長くなってしまいましたが、今から100年ほど前の時期をはさんで19世紀終わりの20年間から20世紀初頭までの間、世界のトップを走っていた科学が日本にあったのをご存知でしょうか。

それは地震学です。そして、それは地震学者の大森房吉に負うところが大きかったのです。日本史の教科書にはその名が出ているはずですが、日本の科学史または地震学に興味を持っている人でしか覚えておられないでしょうか。

大森房吉(1868-1923)は福井藩士の子供で明治元年の生まれです。彼の一生を見ると、まさに地震学に一生を捧げた人生だったことが分かります。そもそも、因縁というか、東京大学を卒業したての頃、明治24年に中部地方を襲ったマグニチュード8.4というとてつもなく大きい地震がありました。地震史上名高い、濃尾大地震です。大森の先生役でもあったミルン(第52話参照)の助手としてこの地震現場に派遣されたのが、大森のその後の華々しい地震学者としての出発点でありました。

実は東京大学での大森の上司には、関谷清景という世界で初めての地震学者がいたのですが、この人は不幸にも肺の病で現役中何度か倒れ、43歳の若さで他界したものですから、大森は29歳の若さで教授職に就いています。

学者としての彼の功績は地震計を開発したり、地震の統計的処理で各種の大森公式を開発したりしています。また、濃尾地震後に組織化された震災予防調査会の幹事を務めるかたわら、世界各地に招聘される機会が多く、地震学における世界的権威に昇りつめました。当時のこの分野でのスター的存在だったようです。

大森房吉を語るとき、必ず言われるのが大森・今村論争です。これは日本の科学史上の1ページを飾る出来事の1つでありました。

大森の研究室には今村明恒という大森より2歳若かった助教授がいました。この人、大森が若くして教授になったことと、年齢に開きがなかった不運もあって、万年助教授であり、教授になったのが実に53歳になってからでした。もっとも、助教授時代は陸軍の所属であり、給与もそちらから支給されていたようです。

大森も今村も同じ研究室であり、地震学に対する研究方法に違いはなかったのですが、性格と地震予知に対する考えに大きな違いがありました。何かにつけて、おっとりした性格で“お嬢さん”とあだ名されていた大森に対して、薩摩生まれでずけずけと物を言う直情型の今村という対照的な二人でありました。

「今後、50年内に東京で大地震が起こる」という、今村の直感が活字になってマスコミに公開されたことがあります。日本の大地震の歴史を見て発生周期を予想した今村の判断でした。当初は別段、なにほどのこともなかったのですが、マスコミのセンセーショナルな記事に誘導されて世間が地震のことで騒々しくなってしまいました。これを見た、大森は社会不安を鎮めようと今村説を否定する論説を張ることになります。予測困難な地震予知というものを軽々しく発表して社会を不安に陥れることは学者のすることではない、と今村を非難したのです。現在でも存在する、地震予知に関する対立する考えの源流が大森・今村論争にあったのです。元々、性格的には合っていなかった二人はこれがきっかけで感情的にも対立してしまうことになってしまいました。人間社会の難しいところですね。

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科学には大きく分けて2つあると筆者は思います。ロケットを正確に月面着陸させる科学がある一方で、地上2mほどの距離からちり紙を手から離してどこに落ちるか予測できない科学もあります。地震予知というのは後者の範疇に入る科学であることは論を待たないでしょう。

そんな地震に対して、大森説も今村説も間違っていると誰しも判断できるものではありません。しかし、歴史というものは酷なものです。この論争があった時期からしばらく経った大正12年9月1日に、不幸にも今村説が肯定される大地震が起こったことは後世の誰もが知るところであります。

関東大震災が起こったとき、大森はシドニーでの学術会議出席のため、日本代表の一人としてオーストラリアの地にいました。そして、こんな悲劇ドラマがあるのかと思ってしまう出来事が発生します。シドニーにある天文台がたまたまドイツから新しい地震計を導入していました。そこで、せっかくだからというわけで地震学の世界的権威・大森房吉に見てもらおうと関係者がその天文台へ招待したのです。大森が地震計を見つめるその時、針が大きく揺れたというのです。地震記録から大森が予測した震源地が何と、故国日本の関東地区というではないですか。ずっと後年、地震学の後輩、坪井忠二が「南十字星の下で関東大震災を観測」という描写をした一齣であります。

往路から体調のすぐれなかった大森は周りが体を心配するのも聞かず、急遽予定を変更して一人帰国の船旅につきました。日本へ着いた時は、一人で立てない重体の身でありました。結局、大森はその年、大正12年に亡くなっています。濃尾大地震から関東大震災に挟まれた地震学者・大森房吉の象徴的な人生でありました。

大森の死後、日本の地震学はそれまでの世界的リーダーという地位も翳りを見せることになります。大森の生前からも、彼の地震学には物理が無いと批判はされていました。彼の地震学は統計的に処理する現象学であり、地震の原因や地震波の媒体を研究する物理学としての地震学が欠けていたのは事実です。世界の趨勢が地震を物理現象の1つとして捉える方向にあって、その後の日本での地震学はそれまでの優位性はなくなっていったとのことです。

100年前ほどの明治末期から大正時代にかけて、科学後進国日本に世界に冠たる科学があったという話でした。

2008年2月記

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