FEMINGWAY 〜有限要素法解析など構造設計にまつわる数理エッセイ〜

第41話 ペンは剣よりも強し

高校時代の世界史の教科書には18世紀フランス、百科全書派といわれたヴォルテール、ディドロ、ダランベールといった人たちが後世、啓蒙思想時代といわれる時代を担っていたという解説があったことを記憶しています。

こう始まれば、本書は理工系向けなので、読者はてっきり今回の主人公が数学者、ダランベール(D’Alembert;仏1717-1783)であると予想されるかもしれませんが、そうではありません。ヴォルテール(Voltaire;仏1694-1778)が主人公です。

ヴォルテールといっても、フランス文学やフランス思想に特に興味を持っている人でもない限り、フランスの啓蒙思想家の一人であったということぐらいしか知らないというのが大方のところではないでしょうか。ところが、この人、詩人であり小説家であり劇作家であり、はたまた歴史家、思想家でもあったという、ありとあらゆる文人の肩書きを持った巨匠なのであります。その一生を見るとき、「ペンは剣より強し」という言葉はヴォルテールのためにあると思ってしまうほどに筆が立ちました。筆が立ち過ぎて、筆禍事件、発禁処分がたびたびの人生でありました。

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筆者がヴォルテールに関心を持ったきっかけは、彼と同時代を生き、彼と同じくニュートン力学を母国フランスに伝道していた物理学者モーペルテュイ(Mauperteis;仏1698-1759)との絡みからです。

理性、進歩、自由、合理性といった現代にも通用するキーワードがヴォルテールの思想の根源をなしていました。そして、なによりもその正義感から発する大の論争好きで、しかも、舌鋒鋭く相手を攻撃するものですから、論敵から身を隠すためバスチーユ牢獄に放り込まれたり、パリを脱出したりしているのです。後世の人間から見れば、全く痛快な人生でもありました。

やはり、ある貴族との喧嘩からヴォルテールはフランスを逃れてイギリスに渡ったことがあります。滞英中にニュートンの国葬に出くわしたり、モーペルテュイの手引きでニュートン力学を知ったことが彼の人生に少なからず影響を与えています。これ以後、ヴォルテールはニュートンの信奉者となり、ニュートン力学の伝道者となるのです。

帰国後、母国フランスの政治、社会、慣習などを風刺する目的で、イギリスのそれらを紹介した“哲学書簡”という本を世に出すことになります。これがまた、物議を醸して彼はまた、雲隠れする羽目になります。

ところで、哲学書簡の中にはニュートン力学の章があったり、驚くことに数学的無限のことまで記述した章があるのです。宇宙を渦動とみなしたデカルトの間違った物理理論が敷衍していた当時のフランスに対して、いかにヴォルテールが新しい科学の輸入に熱心だったことがうかがえます。

さて、雲隠れした先というのが、先に知り合いになっていたシャトレ公爵夫人の所であります。この後、彼女の若い急逝まで二人は愛人生活を送ることになります。

ヴォルテールとシャトレ公爵夫人のことはかなり有名な事実ですが、それは単に愛人同士だったというだけでなく、フランスではじめて、ニュートン力学のバイブルともいえる“プリンキピア”の仏訳書を出版したことにもあります。

宮廷夫人にしては珍しく、シャトレ公爵夫人は数学的才能があり、さらに数ヶ国語が理解できたことが幸いしてラテン語で書かれたプリンキピアのフランス語版ができたのです。数学の家庭教師(この時の先生のお話も、また後の機会に登場してもらう予定)を雇用してまで勉強し、余白欄にはシャトレ公爵夫人の注釈まであるというから全く驚いてしまいます。

数学に熱心であったシャトレ公爵夫人もやはり18世紀フランスの宮廷夫人であり、恋多き女性でもありました。戦争に行ってばかりのシャトレ公にも遠慮せず、ヴォルテールとの愛人生活を送っている最中にも何人かと浮気をしているのです。その最後の情事で子供を宿してしまい、それが文字通り命取りとなりました。産後が悪く、42歳という若さで亡くなってしまいました。ヴォルテールは最期まで看取ったということです。

最後に。ヴォルテールの人生にとって、シャトレ公爵夫人とならんで、もう一人、比重の大きかった人がいます。プロシア王、フリードリッヒ2世のことです。次はこの人に絡んで、ひと悶着起こす相手となったモーペルテュイのお話をしましょう。

2006年9月記

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