FEMINGWAY 〜有限要素法解析など構造設計にまつわる数理エッセイ〜

第40話 飛行物語

前回、紹介した京都府八幡市にある男山の麓、京阪電車・八幡駅の近くに“飛行神社”という一風変わった神社があります。これは二宮忠八という人が造った神社です。航空事故で亡くなった人たちの霊を弔う神社だということですが、彼がなぜこうした神社を造ったかは、彼の人生を眺めてみれば納得できるでしょう。なお、ここでは、“飛行機”ではなく、わざと“飛行”と記述していますこと、予め断っておきます。

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二宮忠八は科学の遅れた日本にあって、こんな日本人もいたという一人です。彼と飛行器の話は筆者が小学生の時代、国語の教科書にあったようですが、残念ながら筆者に記憶はありません。今では二宮忠八のことを書く書物も少ないようですが、彼の人生は作家の吉村昭さん著の“虹の翼”に語り尽くされています。以下もこれに寄るところが多いです。

二宮忠八(1866-1936)は慶応2年、伊予・八幡浜に生まれました。海産物問屋を営んでいた生家は没落することになり、子ども時代は他家へ奉公するなど辛い生活を強いられることになります。特筆すべきは忠八の、空を飛ぶ物に対する好奇心がこの頃からあったことです。今でいう航空力学のセンスが抜群で、手先も器用なものですから、普通人にはとてもできないような奇抜な凧を作っては飛ばし、近在の人たちを驚かしていたことです。

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長じて、四国の丸亀歩兵連隊に入隊します。この軍隊生活中のことです。山中の行軍演習での休憩時、カラスが羽を広げて滑空する姿に忠八の目が留まりました。彼の研究心が俄然頭をもたげた瞬間であります。それからというもの、軍務を勤めるかたわら日夜、模型飛行器の試作の連続でありました。

ところで、この当時の日本にあって“飛行機”なんて日本語はもちろんありません。忠八は彼の作った模型飛行物に“飛行器”とネーミングを与えたそうです。小さい飛行物だから、“飛行機”でなく“飛行器”であったことは日本語的には極めて妥当で面白いですね。ついでに言っておけば、“飛行機”の方の用語を作ったのは森鴎外だともいわれています。

明治24年(1891)、ついに忠八は模型飛行器の飛行に成功します。カラス型飛行器の誕生です。動力は今のものと同じゴム紐を巻くものでした。面白いことにプロペラの位置は今とは違って後ろに付けてありました。この飛行がライト兄弟による有人飛行の成功より12年前というのが、忠八を語るときに強調される点であります。

人間が開発する構造物で流体力学の知識を必要とするものは最初、飛行する動物たちからヒントを得ることが多いようです。新幹線の車両設計においてもそのようです。トンネルに高速で進入した際の進入口での音の軽減を目的に先頭部の形状を考えるのに、魚を求めて水中に突入するカワセミの体型を参考にしたと聞いています。また、パンタグラフが空気を切る際に出る騒音の低減策に、音も無く飛行して獲物を捕らえるフクロウの羽を調べたといいます。

忠八も例外ではなく、カラスに続いて飛魚、昆虫類といろいろ調べた後、玉虫の飛行に注目します。そして、複葉型の玉虫型飛行器の完成をみます。

模型飛行器の次には有人飛行へと夢が膨らむのは当然の成り行きでしょう。だが、ここで忠八は壁にぶつかることになります。人間を乗せて飛ぶには動力の問題が残ります。ここにいたって、彼はこれ以上、個人の研究だけでは無理と悟り、飛行器の研究を陸軍に引き継いでもらう計画を立て、軍の上層部に建策することになります。ところが、人間が空を飛ぶという夢物語のような話に理解を示す人間なんて当時の日本にいるはずもありません。時期も悪かった。忠八が建策した時期、日本は日清戦争の最中で、そんなことに関わる余裕は陸軍にもなかったのです。

飛行器開発の夢を断たれた忠八は陸軍を除隊した後、衛生兵だった経験を活かし、薬業界に身を投じてしばらくは飛行器のことは棚上げすることにしました。大阪での製薬ビジネスでは武田、田辺、塩野義といった薬業界の老舗の長たちにも信頼を得て実業家としても成功します。そして、貯蓄もできたころには、またまた、飛行器の研究心が復活することになります。

そんな頃です。石清水八幡宮に詣でた際、自分の生まれ故郷に似た地名を持つ場所が気に入り、ここに拠点を移して飛行器の開発を再開始することになるのです。今度は発動機を動力源とする飛行器づくりで、いよいよ、これからという時、悲運にもライト兄弟による飛行成功のニュースが海の向こうから伝わってきたのです。時に、明治36年(1903)のことでした。このニュースを知った忠八はハンマーを持って製作中の飛行器を壊してしまったといいます。彼の胸中、察して余りありますね。晩年は自ら神官の資格を得て、航空機事故で亡くなった人たちの霊を弔うことにつとめたそうです。

二宮忠八は不運にも上級の学校へ進める家庭環境にはありませんでした。才能もセンスもある人だったので、もし、大学の工学部に行っていれば航空力学の大家に、もし、理学部に行っていれば著名な実験物理学者になっていた人ではないでしょうか。

2006年7月記

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