FEMINGWAY 〜有限要素法解析など構造設計にまつわる数理エッセイ〜

第38話 120年前の論争

今から120年ほど前の1886年、ドイツのドレスデンで開催された地学協会の講演会でのこと。たったいま終わったばかりの講演“日本列島の地と民”に怒りを隠せない一人の日本人の姿がありました。彼は講演者の話が終わるやいなや別室でその人を囲んだ食事会の席上、反論の気炎を吐いたのです。この人物こそ、後の鴎外、森林太郎の若き姿でありました。彼は軍医としての研修で陸軍からドイツへ留学派遣されていたのです。

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そして、このときの講演者というのが、ナウマン象の呼称で今日の日本人にも広く知れ渡っているナウマンだったのです。彼は10年間にわたる日本滞在から帰国してほどなくで、日本での体験談、見聞録を披瀝したのですが、聞いていた森林太郎にすれば日本蔑視に聞こえたようであります。この反論は場所を移してミュンヘンでの論争と発展し、新聞紙上での論争にもなったようです。

それにしても、ドイツ人相手の論争を苦ともしない林太郎の語学力、遠い異国の地での自信満々たる姿勢は一体どこからきているのでしょうか。この時期より少し後の世紀の分かれ目に英国へ留学した夏目漱石が一人、下宿先で孤独な生活を送り、はては神経衰弱になってしまったのとは対照的であります。

森林太郎(1862-1922)という人は医学博士と文学博士の肩書きを持ち、2つの分野で名を成した人ですが、一般には鴎外という仮面をかぶった姿で後世の人間によく知られていますね。だが、実像は名誉と地位にも執着した完全な官僚軍人だったようです。その生涯をたどってみると、評論家の格好の材料となる人生を送っていることがわかります。

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筆者は鴎外としてではなく森林太郎としての人生にちょっと興味を持ち、彼の生涯を追ったことがあります。かなり興味深いことが多く、それらを紹介したいのもやまやまですが、とても小エッセイで紹介できるものでもありません。ここでは、ただ1つだけ言っておきましょう。森林太郎という人は生涯、論争好きであったことです。

“Statics”という用語を統計と訳する是非の統計訳字論争から発展した統計論争しかり、早稲田の坪内逍遥との間で展開した文芸史上有名な逍鴎論争しかり。そして、明治の陸海軍を震撼させた脚気の原因をめぐる脚気論争とあげればきりが無いほど実に多いのです。虎視眈々と論争相手を見つけては食ってかかり、論争が攻撃的で執拗なのです。最後には、論争の焦点から外れて言葉尻を捉えるようなものも多々あったようです。要するに負けず嫌いなのです。

一方、林太郎の論争好きのおかげで日本との関係が複雑な終わり方になってしまったナウマン(Nauman;独1854-1927)のことです。

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明治8年(1875)、ドイツの地質調査所で助手をしていたナウマンは、縁があってお雇い外国人として日本に招かれます。時に弱冠20歳でありました。ドイツの助手から一躍、日本では教授であります。彼は地質学が担当でしたので中部地方を中心として日本のかなりの場所を巡っています。中でも、特筆すべきは山梨県、長野県あたりを巡回した時のことです。

現在、JR東日本・中央東線の甲府駅を過ぎ松本方面に向かってしばらく行きますと小淵沢駅というのがあります。ここからは小海線というローカル線が長野県・小諸まで繋がっています。小海線というのは日本で一番高所にある駅、野辺山駅を通る線ということで有名ですが、その野辺山駅の手前に清里という所があります。列車に乗ってみれば体感できますが、小淵沢から清里までの間はまるでケーブルカーに乗っているように錯覚します。そして、車窓風景がまた壮大なのです。

130年ほど前、清里を通ったナウマンは地質学者の勘で、ここに地殻の変動があったことを見て取りました。これが、後に“日本のフォッサ・マグナ”としてドイツの文献に発表されたものであります。ナウマン象の方は日本の学者が彼の功績を称えてナウマンの名を付けたものですが、フォッサ・マグナの方はナウマン自身が名づけています。

有名なモースによる大森の貝塚発見といい、ナウマンによるフォッサ・マグナ発見といい、当時のお雇い外国人にとっては東洋の神秘国、日本は研究業績の草刈場であったかもしれません。日本滞在中のナウマン自身も、日本の科学レベルを上げようとする努力よりも、自己の学問的情熱に熱心であったところがあったようです。無理もありません、彼はまだ、20代のバリバリの研究者だったのです。

明治も20年を迎えるような時期になると、そろそろ日本人の後継者も育ってきたということでお雇い外国人も解雇されだしています。明治18年(1885)、ナウマンも契約延長にならず帰国することになります。冒頭の論争は帰国の翌年のことでありました。

ナウマンが発表した日本観というのは、今となっては真意がやや不明なところがあります。急激な文明開化促進により、日本人が西欧文明を皮相的に取り入れていることに対する非難だったと論評する人もいます。「日本人は蒸気船を動かすことは出来ても止めることを知らない」とナウマンが言ったというのもこの証左です。一方、10年も日本にいて愛着をもっていたのに雇用解約されたことに対する不満がトゲを含んだ弁論になったという人もいます。

2006年5月記

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