FEMINGWAY 〜有限要素法解析など構造設計にまつわる数理エッセイ〜

第35話 多彩な人生を送った工学者

筆者が初めてその名を耳にしたのは大学3年生での構造力学の講義の中であったと記憶しています。たしか、ラーメン構造の解説の合間に“鷹部屋の方法”という呼称を講師が使われた。若輩の一学生がその時は知る由もなかったのですが、コンピュータもまだ誕生していなかった一時代、“ラーメンの鷹部屋”で応用力学界にその名が広く知られていた鷹部屋福平という工学者がいました。

後に筆者が門下生の一人となる、そのときの講義の先生は大正12年生まれで、終戦直後、九州帝国大学に学ばれていました。元々、目指していた航空工学が終戦直後でご法度にあい、下界に降りて土木工学に転向された経緯がありました。そのとき、先生の母校であった九州帝国大学・土木工学の教授をされていたのが鷹部屋福平先生(1893-1975)であった由。

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既に、コンピュータ世代に入っている筆者らは、実用段階で利用したことはなく、構造力学の授業の中のみでしか知らない不静定構造の解析手法に“モーメント分配法”というのがありました。これは1930年、アメリカのHardy Crossという人が発表した画期的な構造計算方法でしたが、この向こうを張って鷹部屋先生が昭和10年(1935年)に土木学会に発表された記念碑的論文が“撓角分配法”です。その独創性で土木学会賞を受賞する著名な論文ですが、英語で発表されていたらと惜しまれた論文でもあります。

ここに疑問が残ります。鷹部屋先生はそれまで得意の語学力を活かして、英仏独の3ヶ国語で数多くの論文を発表しているのです。しかも、大正から昭和にかけての時代、高層ラーメン構造の問題を多く解いていて、今で言うハンドブックのような実用書をドイツで出版しているほどの人です。この本は、各国で翻訳されて設計者に重宝されたといいます。それほど、語学堪能の人がどうして一番の大作を日本語で発表されたのかが不思議な点であります。

鷹部屋先生の話はこれで終わりません。

専門の構造力学を離れると、実に多彩な人生を送られた工学者でありました。そもそも、趣味の範囲が広い。手に筆を持つと水墨画を描き、個展まで開かれるほどの実力です。一方、ラケットを持つと自慢のテニス人生となります。そのテニスではシニア・テニスでのダブルス戦で、相手の熊谷一弥1 組を破るという離れ業もやってのけています。時に66歳の時でした。熊谷一弥といえば、1920年のベルギーのアントワープで開かれたオリンピックで単・複とも日本に初の銀メダルをもたらした強者です。

さらにあります。鷹部屋先生は一時期、北海道帝国大学の教鞭をとられた時期があります。この時期にアイヌ文化にも興味を持ち、実際、アイヌ民族の生活に造詣が深くなりました。アイヌ人に関する著書まで出版しているぐらいです。

鷹部屋福平は文理体に秀でた工学者という、まことに稀な存在でしたが、彼の多彩な人生の中でも圧巻とも言うべきエピソードがまだ1つ残っています。この特筆すべき出来事は、前回の話で登場してもらった金子務氏の“アインシュタイン・ショック”の中で紹介されています。

大正11年も過ぎようとする12月の大晦日近くに、鷹部屋福平はドイツでの留学に向かうため洋上の人となりました。全く幸運といっていいのは、その船にこの年の秋に来日していたアインシュタインが帰国するため同乗していたことでした。

同じ科学の分野に籍を置く人間同士、磁石が引き合うように二人は船上で交流を持つことになります。鷹部屋がドイツで自分の著書を出版する話をすれば、ドイツの出版社を紹介してあげよう、とアインシュタイン。二人はそんな仲になります。前記の本には、二人で両端固定梁の計算をしていることも紹介されていますが、アインシュタインが工学の実用計算をしている姿を想像するだけでも楽しいものですね。

アインシュタインは、その航海中も死ぬまで彼を苦しめた“統一場理論”の思索をしていたようです。書いては捨てる計算式の端切れの一部を鷹部屋はそっとポケットに忍ばせたという微笑ましいエピソードもあったようです。

 

[追記]

筆者の書棚には大型の人名辞典が3冊あります。そのどれにも鷹部屋福平の名は載っていません。これは日本だけの問題なのかどうか知りませんが、世の中は何かにつけて文人偏重のきらいがあるように思います。その最たるものが人名辞典です。世界的に業績を上げた工学者も俳句一句を読む市井の文人墨客には押し退けられてしまいます。そもそも、人名辞典の掲載基準は公平なのかどうか疑いたくもなります。鷹部屋福平は是非採り上げてほしい人です。

江戸の昔は“士農工商”と言われ、今は、“政商工農”か“官商工農”と言っていい世の中です。いつの時代も技術者が属する“工”はB クラスのようですね。

2006年1月記

  1. この名前、現代の日本では、ほとんど忘れられていたかと思います。ところが、最近のマスコミで採り上げられたことを読者諸氏は気づかれましたか?
    そう、テニス全米オープンでの錦織圭の大活躍で、「熊谷以来何年ぶり」というフレーズで使われていましたよ。(2014年9月追記) []

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