FEMINGWAY 〜有限要素法解析など構造設計にまつわる数理エッセイ〜

第30話 力学の語り部

昨年(2004)、奇怪な世界的ニュースとなったウクライナ大統領選挙におけるユーシェンコ候補へのダイオキシン毒殺未遂疑惑の騒動の中、一人の美女が登場してきたことは記憶に新しいと思います。先の副大統領だったそうですが、その名もユリア・チモシェンコとのこと。その活躍ぶりから“ウクライナのジャンヌ・ダルク”と呼ばれているそうです。

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現在、首相を務めているこの人の名を聞いたとき、すぐに一人の人物に連想が走ったのは筆者だけではないと思いますが、どうでしょうか。応用力学系の仕事に携る人たちの間では、彼女と同じウクライナの首都キエフ出身の“工業力学の父”と言われたステファン・P・チモシェンコのことが思い浮かんだことでしょう。

応用力学の泰斗チモシェンコ(Timoshenko;露1878-1972)は、その研究業績でというよりもその書物で名を残した人です。ラブ(Love;英1863-1940)のような数学者が著した数理弾性学では、工学系の人間には理解困難であるという思いから、技術者にも分かる教科書を執筆することになります。実際、名著といわれているラブの弾性学の本はエンジニアには近寄りがたい難しさがありますね。

チモシェンコがロシア語で書いた材料力学、弾性学その他の書物が後に各国の言語に翻訳され、以後その国の工学部の教科書として採用されることになります。日本の大学でも工科系で使用される材料力学、構造力学の教科書の多くはチモシェンコの著した書物が源流となっているようです。

弾性体を扱う人は応力を表す記号として慣習的にギリシャ文字“στ”を、歪では“εγ”を使用することが多いですね。これなどもフェップル(Föppl; 独1854-1924)、チモシェンコの師弟が採用していた記号を踏襲している歴史があります。

ところで、チモシェンコは随分と長生きした人です。日本では西南の役が勃発した年の翌年にあたる1878年(明治11年)に生まれ、亡くなった年が実に1972年(昭和47年)であります。昭和47年と言えば、筆者がまだ学園生活を送っていた頃であり、後から考えると、材料力学の神様のような人が自分の勉学中に存命であったとは驚きでありました。

長命に加えて、チモシェンコは驚嘆するほどの旅人でした。ロシアに居た若い頃から何度も西方面へ足を運んでおり、後年、アメリカの市民権を得た後も、毎年のようにヨーロッパ大陸に渡っています。

長命の旅人であったことから随分と多くの科学者、技術者との交流があり、彼の自伝でそのことが紹介されています。プラントル(第16話)、カルマン(第17話)級にもなると有名過ぎて、他の書物でもわれわれはその人物像を知ることもできますが、専門分野も細分化された領域での著名人では、なかなかその人物像を垣間見る手立てはないですね。特に外国人ではなおさらです。塑性論のナダイ(ハンガリー出)、薄肉構造解析でのウラソフ(ロシア出)といった応用力学分野での身近な人の素顔が一瞥できるのもチモシェンコの書物のおかげです。

それと、チモシェンコの著作物を読む人は、多くの参考文献が掲載されていることに気付くでしょう。「これは誰それの究明」という形で他者の実績を紹介する文章が散りばめられていることにも気付くはずです。この点もチモシェンコの教科書を特長的なものとしていますね。

学者生活も晩年になる頃、チモシェンコはドイツへ行ってもイギリスに行っても機会があれば古書店を訪ねています。そこで求めた古書類から彼の最後の名著“材料力学史”が結実することになります。

数学や、同じ力学でも純物理系の力学では多くの通史が出版されています。ですが、実用的な応用力学での通史ともなるとほとんどないというのが現状ですね。われわれはチモシェンコの書物を通じて偉大な先人たちの足跡を垣間見ることが出来るのです。

教育者であったことが強調されるチモシェンコでありますが、実は偉大な語り部でもありました。

2005年3月記

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