FEMINGWAY 〜有限要素法解析など構造設計にまつわる数理エッセイ〜

第28話 ある明治人の記録

今回と次回は工学分野のテーマから脱線してしまいますが、少し医学方面の話を紹介します。

ショート・ショートの作家で有名だった星新一さんは時折、伝記物の作品を出されることがありました。後で分かったことですが、自分の父親、祖父に絡んだ人物たちを選択していたようです。その中の作品の1つが今年(2004)、文庫本で出版されたので早速買って読んでみました。

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母方の祖父、小金井良精(よしきよと読む)の日記を元にした本(河出文庫、祖父・小金井良精の記)です。上下2巻の本ですが、特に明治期を背景としている上巻が大変面白かったです。

小金井良精(1858-1944)という人は、日本で最初の解剖学者であり、一生を学者として過ごした人のようです。出生の地は先月、予期もせぬ大地震で被害を被った越後長岡であり、時は幕末の安政5年でありました。当時の長岡藩といえば、司馬遼太郎さん描くところの河井継之助が主人公の“峠”の舞台でありますね。それからも分かる通り幼少の時期は家族全員が激烈な体験をして明治の御代を迎えたのです。

良精さんは持病があったにもかかわらず昭和まで生きる長生きをした人ですから、一生でいろんな人との絡みがあって大変面白い。その中で姻戚関係でもあった二人の人物が特に興味深いので紹介しましょう。

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一人は小林虎三郎です。と言っても、はて誰かなと思われるかも知れませんが、昨年(2003)、一度は耳にしているはずですよ。小泉首相が“米百俵”の話を持ち出し、世間で少なからず話題となったことが記憶に新しいです。山本有三の戯曲“米百俵”の主人公が小林虎三郎なのです。彼は良精さんの叔父に当たる人だそうです。

もう一人は森林太郎こと森鴎外です。先妻を病死させてしまった良精さん、後妻にもらった人が鴎外の妹だったのです。良精さんと鴎外との間では、われわれもよく知る話に絡む1つの面白いエピソードがあります。

筆者は「エリスは狂いぬ」という文章が妙に頭に残っているのですが、その鴎外の作品、“舞姫”は高校国語の教科書にも採択されているほどですから知らない人はまれでしょう。さらに、この作品が鴎外自身のドイツ留学時代の体験を基にしていることも、また、エリスが日本まで鴎外を追っかけて来たことを知る人も多いでしょう。この時のなだめ役というか、交渉担当者が良精さんだったとのことです。

鴎外という人は後に文豪と呼ばれるほどの文筆家である一方、陸軍軍医の最高位まで昇りつめながら、「余は石見人、森林太郎として死せんと欲す」、と実にかっこいい最期の言葉を残した明治人です。ところが、わりと“お騒がせマン”のところもあった人です。エリスとのこともそうですが、明治時代の陸海軍を戦慄せしめた大問題“脚気”の原因をめぐっての脚気論争ではその一翼を担っているのです。

昔の日本、脚気は結核と並んで二大国民病でありました。軍隊も例外ではなく、戦死者の数よりも脚気で亡くなった軍人の数が多かった時代が続いたのです。脚気の原因を栄養説に採る英国医学を奉ずる海軍に対して、ドイツ医学を奉ずる陸軍は細菌説を採りました。当時のドイツ医学界で次々と細菌が発見されていたことが背景にあったようです。

見方によれば、これは陸軍と海軍の対立でもあります。日本の陸海軍は設立当初から何かと張り合ったことはよく知られている話です。鴎外はドイツ医学を修めるため派遣された陸軍のホープでした。当然、脚気細菌説を展開し、歴史の示すとおり結局、敗北してしまいました。

以下、ついでの話です。

海軍において脚気の原因を食べ物にあると推察して(後にビタミンB1の不足と分かる。鈴木梅太郎発見)、麦飯の支給を奨励したのは薩摩藩の下級武士出身の海軍軍医、高木兼寛(1849-1920)です。高木兼寛と言っても、よほどの歴史好きでもなければ知る人は少ないかもしれませんが、吉村昭氏の一般向け史伝“日本医家伝(講談社文庫)”の中で紹介されています。

鹿児島市から車で宮崎市へ向かうとき、都城を過ぎてしばらく走ると高岡という地名の所を通ります。この高岡が高木兼寛の出生地です。筆者は昔、偶然、立ち寄った道の駅で、ビタミンの町、高岡と紹介されていたことを懐かしく思い出します。

2004年11月記

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