FEMINGWAY 〜有限要素法解析など構造設計にまつわる数理エッセイ〜

第42話 名前の多い小さい奴

大学初年度の数学で“ε-δ 式表現法”というのを習いますね。関数の極限を表現する所で、

 

任意の ε>0に対し適当な δ>0が存在し…………

 

という具合の解説があったことを、読者は覚えておられるだろうか。筆者は大学入学当時、あまり深い意義も分からず、お題目のように唱えていた記憶がある。

“ε-δ 式表現法”は近代解析学の父といわれたワイエルシュトラス(Weierstrass;独1815-1897)が1860年頃、ベルリンでの講義で初めて使用したそうだ。彼には、ドラマチックな人生を歩んだロシアの女性数学者で、もう一人の知恵子さん(第27話参照)でもあるソフィア・コワレスカヤ(Kovaleskaya;露1850-1891)との間の逸話があって、面白い話題を提供してくれるのだが、その事はいずれの機会として、ここでのテーマは彼のことではなく ε の方である。

“ε-δ 式表現法”の影響かどうか知らないが、理工学の分野では、小さい事を表現する記号として、ε、δ がよく使用されている。ところが、テンソル解析の数学書で ε、δ が登場するときは、全く別の意味で使用されており、しかも、お互い同じような使い方をされていて、まるで双子の兄弟のように現れるところが面白い。

δ の方は“クロネッカーのデルタ記号”(理系夜話、第9話参照)というネーミングが定着しているのに対して、ε の方は多くの名前が付けられているのが不思議である。ε の使われ方に違いがあるわけではなく、下記の用法で利用されており、純粋の数学書では一般に交代記号、交換記号あるいは交換テンソルと呼ばれている。

42-a

ベクトルの外積なども、まともに成分表示すると結構、煩雑となるが、この記号を使用すると次のとおり簡潔な表現になる。

42-b

テンソル解析というのが応用数学の1つであることから、数学者のほか物理学者も多く執筆しているので、上の名称に加えて、“ε テンソル”、“レヴィ・チヴィタの記号”、“エディントンの記号”という二人の人名を冠したものがある。ネーミングが入り乱れている感じである。二人の人名が分かれているのは執筆者の学派の違いが理由なのかと勘ぐりたくもなる。

興味本位に筆者の手元にある数学、連続体力学の書籍の中で、ε 記号が記載されているものを調べてみたら24冊あり、その内訳は次の通りだった。

42-c

エディントンと言われても、筆者は数学者、科学者の中で知る人物は一人しかいない。皆既日食の観測から、太陽の重力場で光路が曲げられていることを発見し、アインシュタインの相対性理論の正しさを実証したエディントン(Eddington;英1882-1944)である。しかし、彼は天文学者であったはず。彼の名が冠されたのであろうか。もし、そうならば、創始者のアインシュタイン以上に相対性理論に打ち込んだといわれているエディントンのことである、テンソル代数を駆使した結果の賜物なのか。

一方のレヴィ・チヴィタ(Levi-Civita;伊1873-1941)の方は、はっきりしている。彼はイタリアでは自慢の数学者であったようで、彼の師リッチ(Ricci;伊1853-1925)とともに現在でいうテンソル解析学を創始し確立した数学者である。

彼がこの数学を創始した頃はテンソル解析といわず、“絶対微分学”と呼ばれていたそうだ。リーマン空間のような曲がった空間の解析道具に絶対微分学が創造されたそうだ。この数学を一般相対性理論の解析にアインシュタインが利用したことは科学史の有名な一コマである。

ところで、レヴィ・チヴィタという忘れがたい名を筆者は早くから知っていた。というのも、高校生の時代、受験参考書やラジオの受験講座で名をはせていた矢野健太郎(1912-1993)さんという数学者がいた。実は団塊の世代には涙が出るくらい懐かしい名なのだ。今でも、書店の数学書のコーナーにはヤノケン(失礼ながら、筆者の世代ではこの愛称で呼んでいた)の名を見かける度に、懐かしい思いにひたってしまうのである。

そのヤノケン、筆者らが参考書で接する時期の晩年は、数学教育に力を注がれておられたが、現役の研究者の頃はアインシュタインにあこがれて、微分幾何学の道に進み、その分野では有名な数学者だったのである。実際、アインシュタインのいたプリンストンに留学までしている。

晩年の活動期には、参考書以外にも、一般向けの数学エッセイを数多く出版されている。筆者はそれらの愛読者であった。そんな訳で、エッセイの中に頻繁に登場してくるレヴィ・チヴィタやエリー・カルタンら、微分幾何学という現代数学で貢献した有名な数学者の名を知らされることになる。特にレヴィ・チヴィタという名は一度、聞けば忘れ難い名ではないだろうか。

2007年2月記

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