FEMINGWAY 〜有限要素法解析など構造設計にまつわる数理エッセイ〜

第13話 日本人の創造性

寺田寅彦(1878-1935)の晩年のエッセイの中に“工学博士末広恭二君”という一文があります。昭和7年に亡くなった末広恭二(1877-1932)の追悼文のような形で書かれています。寺田と末広は1年違いの生まれ年であり、しかもほぼ同時代を生き、両者とも比較的短命だった共通点がありますね。筆者の知る限りでは理学者と工学者の二人が一緒に仕事をしたのは、大正12年の関東大震災後に地震に対する調査の時であったようです。

13-1

話は飛んでしまいますが、1940年、アメリカ加州エル・セントロで巨大地震が起きました。以前は、構造物の振動解析のプログラムが開発されると、まずはエル・セントロ地震の地動波形を入力していたものです。それというのも、人類が初めて巨大地震の地震波形をとらえたのがエル・セントロだったからです。そして、これには末広恭二に負うところが多かったのです。

末広は東京帝国大学の付属機関として日本で初めてできた地震研究所の初代所長でもあり、独創的な地震計の開発をはじめ、地震に対して非常に造詣の深い工学者でありました。彼の研究論文はたびたびアメリカで引用され注目されたということです。ついには、アメリカの学会からアドバイスを求められるまでになったそうです。エル・セントロの成果はこのときの賜物でした。

近代科学のスタートラインに立つのが遅れた日本では、西欧技術からの輸入に走り続けた歴史があるため、科学を語る際には、日本人の独創性の欠落問題が指摘されることがありますね。特に工学の分野では、引用されるより引用することが多い彼我の関係を見ると強く反論できないかもしれませんね。

有名な天才的工学者カルマンが来日した際、もらした日本への感想が、「日本の技術者は模倣力に優れているが、創造力に欠ける」という教訓的なものでした。しかし、昔の日本にも末広恭二のような人がいたことを忘れてはいけませんね。

末広恭二は高校時代、父親を亡くし、一時、三菱の岩崎家に寄食していたことが寺田の文にあります。その関係で三菱造船所と縁を持つところとなり、しばらくは造船工学を母体にして応用力学、振動工学を専門とするようになります。この時代、興味深いことにその当時でも珍しいコンクリート製の船舶を設計しています。後年、地震学に進んだのは、船舶関係の振動を研究していたことから来ているのは想像に難くありません。

ところで、末広恭二の家系には注目するものがあります。父親は日本史の参考書に出てくる伊予宇和島藩出身の政客で有名なジャーナリストであった末広鉄腸です。子はまた、魚類学の権威で魚博士と呼ばれた名エッセイストの末広恭雄さんです。末広恭雄さんは一般向けに魚のエッセイを多く出していますね。筆者は学生時代、この人の“魚の王国”、“魚と伝説”などを知り、読み出すと面白くて次から次へと読み継いでいった思い出があります。その末広恭雄さんも亡くなって久しくなりました。

親子三代、全く別部門で名を成すという、どこかの国の政治家たちに聞かせてやりたい、すばらしい家系ですね。

2002年8月記

Advertisement

コメントを残す

ページ上部へ